ROAD to 2020「元Jリーガーが自らつくったJクラブ」 サッカーチームのブランディングに成功!SC相模原 望月重良さん
刻々と変化し続ける現代のスポーツビジネス、そしてスポーツとメディアとの関係。気づけばあと4年。東京オリンピックを視野に入れ、スポーツの最新モードを追う。
※本記事は2016年3月に発売したSynapseに掲載されたものです。
SC相模原 会長 望月重良
1973年生まれ。清水商業高校で全国制覇。筑波大学を経て名古屋グランパスエイトに加入、京都、神戸、千葉、仙台など数々のチームで活躍。日本代表として通算14試合に出場。2006年引退。07年よりSC相模原を立ち上げに着手、14年にJ3に参戦。現在SC相模原会長。
まずJリーグの仕組みを簡潔に。
2016年、J1は18クラブ、J2が22クラブ、J3が13クラブ。日本のプロサッカーリーグには全53クラブが属している。ピラミッドをなし、それぞれのカテゴリーで入れ替えが行われ活性化している。プロリーグの下にはアマチュアリーグのピラミッド。上から順にJFL、地域リーグ、都道府県リーグと裾野が広がっている。
8年前、望月重良が創設したSC相模原は、神奈川県3部リーグからスタートを切った。それはプロリーグから数えると遥か下界。観客数人、ピッチはない。ゲームは土のグラウンドで行われる。そこからわずか6年でクラブはJ3に昇格。昨年は13チーム中4位に食い込んだ。
なぜ相模原で立ち上げたのか。
─ なぜ、サッカークラブをやろうと思われたんですか。
「知人が相模原にいて、食事に誘われたんです。その時に行った居酒屋さんの大将がサッカー好きで意気投合して。で、"望月さんがここでサッカークラブを立ち上げてくれると相模原が盛り上がるから!"と言われました。実はその時に初めて相模原に来たんですけどね(笑)」
─ それがきっかけですか?
「そうですね(笑)。選手引退後は普通に指導者を想定して、現役時代にライセンスの準備もしてたんですが、そうやって声をかけていただいて、挑戦したい気持ちになって。それから相模原のことを調べてみると、意外にいけるんじゃないかと......」
─ 根拠はあったんですか?
「当時、茨城県鹿嶋市の人口が5万人程度、神奈川県平塚市は24万人ほど。それでもサッカークラブが運営できている。一方、相模原市は70万人。当時、政令指定都市へ移行中で、おまけに新スタジアムが建設中。"そんな町にサッカークラブがない"ということがむしろ疑問に思えてきて、クラブを立ち上げることにしました。まあ最終的には直感のようなものですが」
─ 引退後、相模原での衝撃的な出会いまでは何をされていたんですか?
「半年ほど解説をしたり、子どもたちの指導をしたりしていたんですが、あまり生きてる感覚がありませんでした。子どもの頃からずっとサッカーで真剣勝負してきたのに、解説も指導も、自分自身の勝負とは何の関係もないですからね。
翌年クラブを立ち上げ、県3部の最初の試合で勝った時は"ああ、これだ!"って久々に感じました。土のグラウンドでお客さんも全然いなかったけど、現役時代と同じ感情が蘇ってきたんです。俺にはやっぱりこれしかない! と」
─ 根っからの勝負師ですね。でも県3部から上へあがっていく速度が尋常じゃないです。
「ありがとうございます! 我々は立ち上げ当初"相模原からJリーグクラブを"という目標を立てたんですが、それを早くも達成できました。2年前にJ3というカテゴリーができて、そこで戦えていますからね」
─ ゼロから立ち上げたクラブがJリーグ入りするという初めてのケースになりましたね。
「最近、福島県いわき市にスポーツブランド"アンダーアーマー"を日本に持ってきたドーム社が新チームをつくりましたし、去年までうちにいた高原(直泰)も沖縄でチームを立ち上げました。
自分たちが仕掛けてつくっていく時代が始まりつつある気がしますね。自分がひとつの例を見せることができたというのが嬉しいし、これが今後のサッカー選手のセカンドキャリアのひとつの選択肢としてモデルケースになればいいなと」
経営の優良さとチームの強さの両輪で。
─ 引退後の最大の挑戦はクラブの立ち上げですか?
「クラブの立ち上げも挑戦でしたが、むしろその後の経営のほうが大変だったというか......スポーツクラブの経営ってすごく特殊なんです。企業としてうまく利益を出せばいいだけじゃなくて、競技でも勝たないといけない。
両輪をうまく回さないと、成り立ちません。ですからずっと緊張感のあるなかでクラブ経営にチャレンジし続けてきました。僕らのレベルのクラブは、負けたら次はない」
─ 経営的にも上のカテゴリーのほうが安定しますよね?
「ええ。年々上に行くことが営業的に有利になりますし、モチベーションにもなるわけです。上がれなければ成長していないと実感させられるのはスポーツならではの怖さですね」
─ 上を目指すなかでいちばん大変なことは何ですか?
「組織づくりです。スタート時からクラブが大きくなるにつれ、自分が連れてきた仲間を切ることもしてきました。これはプライベートの望月なら絶対にしません。でもそうしないとクラブの成長が見込めないのであれば、経営者としてはやらざるを得ない。心を鬼にして切り分けなければいけないんです」
─ それはプライベートでの関係にも影響しますか?
「残念ですが、そうなりますね......。でもそれってプロだったら当然なんですよ。チームと契約して、構想から外れたら戦力外になる。次の身の振り方を考える。そういう厳しい環境を共有してきた人間たちと仕事をする場合は、ビジネスとプライベートはきちんと区別できます」
─ チームのブランディングやPRにはどんなふうに取り組んでいらっしゃいますか?
「多くのJクラブみたいに大企業がついているわけではないので、非常にベンチャーっぽい雰囲気で、"効果あるならやればいいじゃん、今すぐに!"って。試合当日にイベントを組んだり何でもあり。企業としての決定・決裁の速さはJの53クラブ中最速だと自負してます」
─ SC相模原らしさ、ってどんなところですか?
「僕自身が動いて積極的に選手を獲得しているところです。2年目の神奈川県2部リーグで戦ってる頃から外国人選手を獲ってましたからね。で、2012年にうちで活躍したブラジル人選手が、翌年J1の横浜Fマリノスに引っ張られたり。4カテゴリー超えて移籍するのって初めてみたいですよ」
─ 自らブラジルに視察に行かれるんですよね? お金も時間もかかるじゃないですか。
「クラブとして"やらなきゃいけないこと"なので、それは当然です。プロサッカー界で十何年やってきたことで選手の目線と独自のネットワークに自身があります。高原(直泰)選手や川口(能活)選手を獲得できたのも、その強みだと思います」
─ スター選手がいるだけで俄然注目度は変わりますよね。
「そこはすごく意識しています。そんな選手がひとりいるとまったく違うんです。市民のみなさんの注目度もそうだし、メディアの対応も違う。僕は現役最後に横浜FCでカズさんと一緒だったんですが、番記者がいて、何かあるたびに取材してくれてメディアに出て......これが実はチーム内部に大きな影響を及ぼします。周囲の選手たちに"プロらしく振る舞おう"っていう自覚が生まれてくるんです。一流選手はいろんな角度でチーム内の意識を高めてくれます」
─ チームブランディングやPR面での課題は何ですか?
「関東地域のクラブはみなそうだと思うのですが、メディアとの関係ですね。僕がかつて名古屋や仙台のクラブにいた時、ローカルニュースで頻繁に情報発信をしてくれたんです。
選手は地元のスターですし、彼らを見に地元のお客さんもスタジアムに詰めかけてくれた......地域外では無名だけど、地域内ではそれなりにリスペクトもされて。関東はキー局が中心なので、そこがなかなか難しいんです。むしろ全国区じゃないと扱われないわけで、どうしてもクラブより代表になるわけです。やはりメディアの力は強いので、なんとかしていきたいです」
クラブの未来、スポーツへの希望。
─ クラブと会社の運営に関する課題はいかがですか?
「このクラブでの僕自身の目標は、当然J1、ACLです。そのためにはクラブをさらに大きくしていく必要がある。今は"第2創生期"という感じですね。考えないといけないのは、"自分自身のこと"ではなく、クラブが良くなるためにどうするのがベストなのか」
─ それは、他にいい人材がいれば任せてもよいという?
「現役時代から、クラブのフロントを見た時に、いるべき人がいるべきポジションにいないシーンを多々見てきて、クラブ運営にプラスにならない企業論理みたいなものを痛感してきました。
適材適所が常に機能していることでクラブは大きくなっていく。だからそれは自分が経営側に回った今、選手たちに同じようなストレスを与えないように運営していければうまくいくんじゃないかと思っていて。僕は"100年続くクラブ"を最初の理念に立ち上げたので、僕自身も常に今の立場にふさわしいかを問われるべきなんです」
─ 現スタジアムはJ2基準を満たしてないようですが、昇格に向けてどうお考えですか?
「やれることをやっていくしかないですよね。スタジアムが小さくて上に上がれないなら、J2よりも面白くて強いJ3のクラブでいようと考えています」
─ 行政の協力は?
「米軍から返還される相模総合補給廠の跡地に新スタジアムをつくる構想は聞いたことがあります。例えば今年ガンバ大阪は吹田に民間の力で新スタジアムを建てましたけど、あれが今後のモデルケースのひとつになるかもしれませんね。
相模原には2027年にリニアも止まりますし、そう考えると、町の中長期ビジョンでは明るい材料しかないので、そういうのをうまく使って、SC相模原の大いなる発展につなげていきたいです」
─ 2027年の前に2020年に向けてはどうお考えですか?
「僕は東京オリンピックを機にスポーツの価値を上げていければいいなと思ってるんです。欧米に比べると日本ってどうしてもスポーツが軽く見られている。"無料で見るもの"だし、他にも娯楽があるからしょうがない部分もあるんですが、スタジアムに行って楽しむ文化があまり育っていないので、そこを良くしていきたいですね」
─ それには何が必要ですか?
「我々が協力いただいているSC相模原のスポンサーのみなさんには、お金だけで終わりではなく、クラブと地域住民と"一緒につくっていきましょう"ってお話しています。スポンサーというよりパートナー。東京オリンピック・パラリンピックも、日本の企業が一体になって、日本を盛り上げる、日本のスポーツ文化をつくりあげるという気持ちを全員で共有することがいちばん重要だと思います」