熊本シティエフエムラジオからテレビに転身「その地域で生きることを肯定すること」そして「いつも新たな挑戦を」 熊本朝日放送 小野 史修さん vol.1
熊本朝日放送 東京支社営業部 東京業務部長 小野 史修氏
~本社ではなく東京支社で、ローカル局の局員がすべきこと、やれることとは?小野氏のバイタリティあふれる仕事ぶりから、そのヒントを探る~
─ 小野さんは熊本朝日放送に入社される前は、コミュニティFMにいらしたんですよね。その時はどのようなことをしておられたのでしょうか。
1996年4月、熊本市に開局した九州初のコミュニティFM『熊本シティエフエム』に新卒入社、営業部に配属されました。そこから10年間、キー局もないラジオ局がどうすれば収益を上げながら市民から支持されるのか...若輩者のくせに経営者の真似事のようなことを日々考えていました。
視聴エリアが狭いコミュニティFMのCMの単価がとても低く、放送だけの広告収入だけでは利益は出ません。そこで、デパートや商店街アーケードでしか聴けないラジオ番組のような館内放送イベントを企画したり、局の放送機材をPA機材として活用したイベントを企画して請け負ったり。
小学校を中心とした"校区"という単位で地域を限定し、熊本市内の全校区(当時79校区)を回り、子ども達や地域住民をパーソナリティになってもらう市民参加、市民主役番組を制作したり...土日の休みはほぼありませんでした(笑)
コミュニティエフエム局はキー局も系列局もないので、24時間独自の番組編成が可能。その利を活かして『ラジオは聴くものでなく、出るものです』と口説いては地元の皆さんにラジオに出演していただき、身近な放送局という信頼関係を築いていきました。信頼関係ができれば、市民や地域や民間企業の課題に対しても、地域に根付いた小さなラジオ局だからこそお力になれることもあり、ビジネスチャンスに変えていきました。
この10年の積み重ねが熊本出身ではない(※北九州市小倉出身)自分でもいろんな方々と確かな絆ができた理由だと思います。結婚する際、担当していた商店街のいろんな店主の方から『店があるから結婚式には出れないけど、俺の店の前を歩いてくれ』と声を掛けていただき、商店街のアーケードの真ん中を親族や参列者の皆さんと一緒にパレードしたほどです(笑)。あの時アーケードのBGMも「結婚行進曲」になってましたよ。
テレビ局へ転職した今でもお付き合いは続いていて、ラジオ番組のパーソナリティを務めて下さった商店街店主の方の中には、熊本朝日放送制作の番組に現在コメンテーターとして出演していただいている方もいます
─ 小野さんはコミュニティFMを経て、熊本朝日放送に入社されていますね。
社会に出て丸10年。30代になり公私ともに転機といえる出来事が重なった頃、〝お前のやっていることをテレビでやってみないか〟と声を掛けていただき、熊本朝日放送に転職しました。転職した当初から、東京支社勤務を希望していました。
というのは、県外出身の自分が熊本の人たちから可愛がってもらって、どんどん馴染んでいくのはいいことだけど、熊本の課題を見つけたり盛り立てていくためには、外から熊本を見る冷静な視点や経験をちゃんと身につけたい。県外出身者だからできることは何か、居心地がいい熊本を離れて一度見つめ直したかったのです。
─ 東京でどんなことをしようとお考えだったのでしょうか?
地元にいた時は、どうしても〝ココ(熊本)から発信〟という視点でしか、ものを考えられませんでした。ちょうどその時、九州新幹線全線開業プロジェクトのアドバイザーに就いた熊本出身の脚本家小山薫堂さんとお会いして。当時誕生したばかりの『くまモン』の企画に一緒に加わらせていただくことに。あの経験で、東京や他の地域の人から熊本がどう見えるのか、という外からの視点に強く興味を7持つようになりました。
そこで、東京に行って自分たちだけの力ではなく、東京で活躍するプロフェッショナルな方々と知り合って一緒に何かやってみたいと思うようになったんです。熊本県出身ではないからこそ「客観的な視点」を自分の個性や強みとしてもっと生かしたいと思うようになりました。私が当時感じていた熊本県人の傾向として、手が届く近くの人から何か言われてもあまり響かなかったのに、遠い存在の人からの言葉にはすごく敏感に反応すると感じることがよくありました。
遠い存在の人とは、分かりやすく言えば、著名人だったり、芸能人だったり、東京で活躍する人、しかも大事なのは「熊本への愛」がある人。そういう思いもあり、東京で活躍している熊本県出身者や熊本愛を持っているプロフェッショナルな人と会って、熊本を盛り上げるためのネットワークをつくりたかったのです。上京したのは、東日本大震災直後の2011年の4月。
当時は、東北だけでなく東京中が傷心し、自分の故郷や出身地に思いを馳せる会話ばかりでした。熊本出身の方々に会いに行きたいと連絡すると、忙しいスケジュールを調整してくれて故郷の話や生い立ちを聞かせてくれました。今思うと、まだ仕事にもなっていないこういう会話が、その後いろんなことがカタチになった必然の流れだったような気がします。
─ 小野さんが関わっているプロジェクトの一つに、行定勲監督作品の映画『うつくしいひと』(16年〜)シリーズの制作があります。これはどういう経緯で実現したのでしょうか。
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