人生を深くしてくれたAbemaTV『けやきヒルズ』での経験【徳永有美のメディア先読み】いまの等身大の自分で、素直な声を伝えていきたい
フリーアナウンサー 徳永有美 さん
1998年にテレビ朝日入社。『やじうまワイド『スーパーモーニング』などのMCを務め、2004年4月から『報道ステーション』のスポーツコーナーを担当。2005年4月にテレビ朝日を退職し、2017年に12年ぶりにAbemaTV『けやきヒルズ』のキャスターとして現場復帰。
2018年10月より『報道ステーション』メインキャスターに就任した。
「徳永有美 のメディア先読み」で、歯切れの良い発言と、地上波・Webの両方を知る立場ならではの鋭い視点を見せてくださっている徳永有美さん。10月1日から、テレビ朝日『 報道ステーション 』でキャスターを務めることになりました。13年ぶりとなる古巣への復帰を果たした徳永さんに、テレビ業界に入ってからこれまでのことやAbemaTVでの経験、そして今後の抱負について語っていただきました。
広告業界志望だった学生時代
─ 徳永さんがテレビ業界を志望したきっかけを教えていただけますか?
もともとは、広告代理店志望でした。広告を作るクリエイターになりたいと思っていたんです。映画や小説の長いものではなく、5秒、10秒で表現し勝負する世界観が好きで、学生のときには『広告批評』などをよく読んでいました。広告は、時代観やその人のセンスが凝縮されているのが楽しい。しかし、就職試験を受けるにあたってマスコミ対策みたいなことをまったくしていなくて、広告関係の本を読むぐらいでした。
アナウンサーの試験を受けたのは、広告代理店よりも日程的に先だったからなんです。広告代理店の入社試験に向けて...という感じでした。
─ 広告に関心を持ったきっかけは何でしたか?
私が通っていた大妻女子大学は市ヶ谷駅近くに寮があって、学生時代はそこに住んでいました。休みの日には、新宿にあった青山ブックセンターによく通っていました。あそこはクリエイティブ関係の本がたくさんあったので好きでしたね。自分好みの本を選んでいたら、広告に行き着いたという感じでした。
加えて、寮の同じ部屋に住む先輩がとてもおしゃれで独創的で、かなりとんがっていたんです。とても美しい人で、観る映画も、服装もちょっと変わっていて、放つ言葉もセンスにあふれている。その先輩とは美術館などによく一緒に行きました。そういった人とのふれあいから刺激を受けたのは間違いありません。
もしも今とは違う人生があったなら、「広告クリエイターとして広告を作りたい」と思ったりします。センスがあるかわかりませんが...。短い瞬間にすべてを賭けて、凝縮して表現するというところに、今でもすごく惹かれています。
─ まだまだ、機会があるかもしれませんよ。
どうですかね。あってもいいんでしょうかね?(笑)
より良いもの、他では絶対やらないことを
─ 入社して、最初に担当した番組での思い出ってありますか?
最初のうちは、朝早い番組が多く、毎日精一杯でした。「自分はこんなことがやりたい」といった意志もそんなになかったです。
入社2年目ぐらいから仕事の幅が広がって、ディレクターたちと会話ができるようになると「ディレクターの思いに応えたい、それ以上のこともやりたい」と思うようになりました。そう思えるようになってきてからが、楽しかったですね。スポーツの現場でも、ディレクターをはじめとするスタッフの人と話して、より良いもの、他では絶対にやらないようなことを常に狙っていました。
私は「アナウンサーとして、自分の強みはこれだ」と誇れるものが無かったので、「人がやらないようなことをやらなければ」という思いがあった気がします。
─ たとえば、具体的に徳永さんらしさを意識した企画ってありますか?
2001年の世界水泳福岡大会に向けて制作された、『世界水泳への道』というミニ枠の帯番組で、シンクロナイズドスイミングに挑戦するという企画がありました。元オリンピックの選手の方々とチームを編成して、『ドラえもん』の曲を踊り切るというものでしたが、髪の結い方や歩き方から始まって、1からすべて練習して、リフトで私を上げてもらったりしました。
まず、女性アナウンサーが水着になるというのが、当時は「そんなことしていいの?」という雰囲気がありましたね。でもバスケやサッカー選手がユニフォームを着るのと同じで、水泳選手なら水着を着るのは当然と思っていたので、私は大丈夫でした。競技のための水着ですし(笑)。
それから、世界水泳に向けて、スペインのグラナダで選手のみなさんが高地合宿されていて、そこで一緒に練習させてもらえたのはうれしかったですね。北島康介さんや、柴田亜衣さんがいる中で、コーチ陣に「徳ちゃんもやる?」って声をかけてもらえたりして。
50mプールで泳がせてもらっていたんですが、何往復もしているうちにプールの真ん中あたりでブラックアウトみたいになっちゃって、鼻血を出してしまったことがあったんです。高地ですし一生懸命になりすぎたようで...。その後、女子更衣室で選手の皆さんに「よく頑張った!」と褒めてもらえて、立場を忘れてうれしかったのを思い出します。「選手の方はここまで自分自身を追い込んでいる。すごく過酷だな」と身をもって知ることができましたね。
そして2002年、ソルトレイクシティ冬季五輪を盛り上げるプロジェクトでやった、スケルトンですね。オリンピックコースを頂上から選手と同じように挑戦することになりました。
─ ケガはなかったんですか?
ちょっとはしましたけど。若いからできたと言えるかもしれません。振り返ってみるとある意味、自分の中では一番恐ろしい挑戦だったのかもしれません。ディレクターや作家のマッチー(放送作家の町田裕章さん)と、気持ちをひとつにしてやり切ったという感じですね。逆にそういう団結感がなければ、できなかったかもしれません。
人がやらないことや、「あなたがやるの!?」と言われるようなことが、私としては本当に楽しい。本望でした。挑戦自体は「やらされた」というよりも、みんなで「それ、いいね」って言って決めたことなので、とても充実感がありました。
─ 「メディア先読み」にも出ていただいた町田裕章さんとのお仕事で、どんなことが印象に残っていますか?
マッチーと一緒に仕事をしたのはスケルトンだけでしたが、強烈な1回でしたね。番組を制作する過程で「歴史の武将で誰が好き?」って聞かれたことがあって、「そこから私を探ろうとしているな」ってみえたので、「これはちゃんと答えなきゃ」と思い、坂本龍馬が大好きなので、武将ではなく龍馬の話をしました。でも「おかしなことを聞く人だな」って思いましたよ。なかなかそういう人が周囲にはいなかったので。
マッチーは基本的にやさしい人ですね。なかなか、あのような物腰の人はいないと思います。とんがっているわけではないけれど、意志はちゃんと持っている人です。
─ 同じく「メディア先読み」に出ていただいた、同期の小松靖さん(テレビ朝日アナウンサー)とはどんな思い出がありますか?
そうですね...1年目の新人研修や『早起き!チェック』という番組で一緒だったり。一緒に仕事をしたのはその1本だけでしたが、そのあともずっと支え合ってきた仲間です。野村真季、小木逸平、小松靖、上山千穂、私の同期5人は本当に仲が良くて、今でも支え合う大切な仲間です。
─ 失敗して慰めあったりしたことはありましたか?
しょっちゅう。傷の舐め合いでしたね。今もそうです。同じ場にいて「昨日の私どうだった?」って素直に聞けるのは、やっぱり同期のメンバーです。「昨日のユミ、ここ良かったよ」とか「ここはやりすぎじゃない?」とか言ってくれますし、私も彼らには言える。同期のメンバーはみんなそうです。
先輩や後輩だと、そういうのを素直に聞けないことも多いですが(笑)。同期なら甘えて「どうだった?」って聞くことができる。いくつになっても変わらない関係性ですね。
─ 『早起き!チェック』のあと、徳永さんは『内村プロデュース』などバラエティにも仕事の幅を広げていかれましたが、仕事の幅を広げる転機になった出来事ってありますか?
2001年世界水泳福岡大会は、自分の中で大きな仕事でした。テレ朝が全社を挙げて成功させるといった意気込みに満ちあふれていました。アナウンサーという枠を超えて、自分もその一員としてかかわることができたことは、仕事人生の中ですごく大きな出来事でした。
「大きなプロジェクトが成功するってこういうことなんだ!」っていう感動があったんです。みんなで同じ目標に向かって汗水流して、ワイワイ話して、ご飯食べて、寝る時間も惜しんであっという間に駆け抜けた、とても忘れがたい経験です。
2021年に世界水泳が20年ぶりに福岡に帰ってくるのですが、そのことが2017年に現場復帰した大きな理由でもありました。2001年当時は朝の番組でリポーターをしていましたが、アナウンサーとしての仕事はあまり記憶にないんです(笑)。会場の雰囲気や、番組スタッフと色々なことを考えたり、事前取材をしたりといった細かいところは覚えているんですが、不思議ですね。
ビッグイベントが復帰を後押し
─ 2017年にAbemaTVの『けやきヒルズ』で現場復帰を果たされたわけですが、この番組を担当することになったのは、どのような経緯からでしょうか?
2020年に東京オリンピック、2021年に世界水泳福岡大会が決まって、「自分は100%観る側でいいのだろうか? 自分も何か伝えたいかもしれない」と思ったんです。そこで、内村さん(ご主人・内村光良さん)に相談しました。内村さんは「やっと、その気になったか!」って感じでした。
私は事務所に所属していないし、子どもがいるし、家のこともやらなきゃいけないという状態でしたが。そういう時期にタイミングよく、AbemaTVの話を頂けたという感じですね。
─ AbemaTVでの経験って、徳永さんにとって世界水泳とは違う意味で大きかったように感じます。
そうですね。人生を深くしてくれた、厚みをつけてくれたのはAbemaTVの『けやきヒルズ』だと思います。まちがいないです。以前、出演していた『報道ステーション』はスポーツ担当だったので、報道番組って実は初めて。しかも、番組を自分が回すっていう役割は初めてで、果たして自分にできるのかと。
でも、とにかくスタッフもみんな必死だし、地上波にない、他ではやっていないことを常にみんな狙いながら仕事をしている。そういうところが、私のマインドにもつながっているのかもしれません。だから、AbemaTVの制作陣の声に呼応して、楽しむことができたのではないでしょうか。
番組を作っていく過程で、何度もトライと失敗を繰り返し、いいものを作るために何度も言葉を紡ぎ出してっていう作業が楽しくて。『けやきヒルズ』は自分にとって愛すべき番組です。
─ 『けやきヒルズ』をやるにあたって、最初にびっくりしたことってありますか?
まず、スタッフの年齢が圧倒的に若い。しかもサイバーエージェントの方たちもいて、テレビ局員とはまた違った感性を持っている。人手が少ないので、みんないろんなことを掛け持ちしていて、つねに追い詰められていて(笑)。ひねり出そうとしている。それがすごく楽しいです。
─ 徳永さん自身も追い詰められている感があるということでしょうか?
私自身でいうと、伝えなくてはならないニュースの原稿量が地上波ではありえないようなボリュームがあるんです。それを伝えつつ、現場も自分で回さなくてはならない。自分が崩壊してしまうと、番組が崩壊してしまう恐れがつねにあって、最初のうちは心臓バクバクの1時間でした。
スタジオトークに120%身を委ねることができればいいのですが、前後の段取りとか、次のニュースとかも視界に入ってくるので、それを理解しながら解説の人と話すということが、ものすごく大変でした。
どちらかに気を取られると、他方がおざなりになって、頭が真っ白になっちゃうこともあります。「次なんだったっけ」みたいな。最初はそのような状況になることが何度もありました。そうならないために、アナサイド(アナウンサーの横にいて時間や原稿の管理をしてフォローする人)とサブとの連携がとても重要になるんです。
最初は、徳永有美という人間をわかってもらうにも時間がかかりました。番組ってやっぱり人間が作っているし、出ている人間やスタッフの雰囲気が番組のカラーになるのだと思いましたね。
─ 進行する役割と、その場の議論を引き出したり回したりする役割。マルチタスクで処理しなければならないですね。
ひとつのニュースに対して、ここまで話を持っていきたいというのは常に意識していました。「このキモに持っていくためには、こういうステップを踏まなきゃいけない」というのがあるのですが、それがあやふやになる瞬間があるんです。「次どうやって持っていこうかな」って。段取りで一生懸命持っていこうとするのですが、できないことが悔しくて。
だからこそ、スタッフとの連携が大切になってくるんです。もう少し出演者の人数が多ければ、少しは余裕ができる。でも、『けやきヒルズ』のように二人きりだと逃げ場がありません。全部頭の中で考えてやらなきゃならないので、そこがつらかったですね。
─ 会話しながら、展開を考えなくてはいけない?
そうです。それによって鍛えられた気がします。
─ 「このニュースの論点は、ここまで持っていかなくてはならない」ということを一つひとつ決めるんですか?
はい。私は自分の観点に自信があるわけではないので、「ここが面白い」「ここがわからない」と提示して、スタッフと議論するということから始まります。『けやきヒルズ』の打ち合わせは、ほかの番組に比べてけっこう長いと言われています。
打ち合わせには、解説の方やプロデューサーや作家さんがみんな参加して、あらゆる角度から探るという感じです。手作り感があって、その作業がとても楽しいです。笑いが絶えない。みんなでひとしきり話した後に、論点整理をして決めていきます。さらに、スタジオの熱量によって新たな展開が生まれることもあるし、もちろん脱線して失敗することもあります。
─ 本当にライブって感じですね。
そうですね。
️13年ぶりの古巣復帰
─ 10月からの『 報道ステーション 』復帰は、どのような経緯があったのでしょうか?
この夏に番組のCP(チーフプロデューサー)やP(プロデューサー)とお会いして、お話を頂きました。とにかくビックリしました。2005年3月末にテレ朝を辞めるとき、『報道ステーション』が最後の番組だったのですが、古舘伊知郎さんが放送最後の1、2秒で「幸せになれ!」って言ってくださったのです。それは、主人とともに大切にしてきた言葉でした。『報道ステーション』のお話を頂いた時は驚きとともに、「13年の時を経て、その番組に戻ることができるんだ...」と感慨深いものがありましたね。
─ 断ることは考えませんでしたか?
単純にうれしかったですし、後ろ向きな気持ちは微塵もなかったです。
─ 『報道ステーション』に復帰するにあたって、準備などは?
20代とは違うので、「このまま行きたいな」と思いました。あまり背伸びをせず、ありのままの姿で。いろんなことを言われるだろうし、いろんな思いで観てくださる方がいらっしゃると思うので。これ以上でもこれ以下でもないので、「このまま行こう」という気持ちですね。
9月29日まで『けやきヒルズ』、30日はお休みで、10月1日から『報道ステーション』というスケジュールでした。『けやきヒルズ』のオンエア後、『報道ステーション』のスタッフ達と勉強会。全てが同時進行でしたが、番組と向き合う姿勢は変わらないのでいい流れでした。
─ 『報道ステーション』が決まってから、周囲のみなさんの反響はいかかですか?
「良かったね」と「子ども大丈夫?」が2大ポイントですね(笑)。子どもはおじいちゃんとおばあちゃん、主人と私の大家族構成で育てることにしました。月曜から木曜は夜は会えず、朝しか会うことができません。朝食とお弁当作り、学校や幼稚園への送り出しが唯一のチャンスとなります。出演のない金曜・土曜・日曜は子育てモードに切り替えてます。
息子は物心つく頃から仕事をしている私を見ているので勝手に育ってくれていますが、娘は専業主婦時代も覚えているので、テレビ朝日の周りを一緒に散歩しながら、「ママはここで仕事するんだよ」としっかり説明したつもりです。
『報道ステーション』の出演が始まってしばらくして、「どうしてこんなに会えないの?」と言っていたことをおばあちゃんから聞き、色々とわかってきている年頃なので、しっかりフォローしていかないといけないと思いました。
─ 初日が終わって、ご家族からはどんな言葉をかけられましたか?
息子はさすがに寝ている時間ですが、娘と主人で見てくれていたそうです。娘から「ママかっこいい」とメッセージがきました。
─ 『報道ステーション』が始まって、『けやきヒルズ』の時と何が違いましたか?
番組の規模、予算、スタッフの数など、目に見える規模は大きいです。尺管理も厳しいです。
今、私なりに努力しているところですが、努力の仕方がやっと少しずつ見えてきたかなという段階です。
影響力の大きさもありますね。だからこそ、スタッフみんなで言葉を精査する、その抽出具合がとても念入りです。それは言葉が時に人を傷つけることもあるという怖さにもつながります。その反面、スパッと言葉が決まり上手く伝わったと感じた時、見ている人と少しでも共有できていればいいなという嬉しさも感じたりします。
─ 『報道ステーション』で初めて取材に行かれたそうですね?
はい。先日はじめて取材に行きましたが、とても楽しくて! 10月にIOC(国際オリンピック委員会)委員に就任された、国際体操連盟の渡辺守成会長にお話を伺いに行きました。
カメラ台数も多く、クレーンカメラも使用していました。編集を経てVTRになり、多くの人が見てどう感じてくれるのか?大きな組織ならではのやりがいも感じました。
私自身も昔でしたら、IOCという肩書きに緊張して硬くなる事もありましたが、年を重ねてきたせいか、初めて会う方への好奇心の方が勝っていますね。
─ この先、何か"風"をもたらしたいことはありますか?
今これだけいろいろな生き方、あり方が多様化している時代に、どれも絶対に否定はできない寛容な気持ち。そういう部分を大事にしたいですね。
あとは、他がやっていないこと。観ている方々の年齢層もあると思いますが、「こんなすごい世界ありますよ」と視聴者を誘うようなイメージで、芸術・美術・音楽などの様々な分野で輝く感性や生き方を紹介できるといいですね。
そして、目の前で起きたニュースに対して、その都度自分はどう感じるのかを毎回大切にしたいと思っています。自分の感じる、考えるベクトルを大切にしつつ、でも真逆の意見の人もいるという事への寛大さを大切にしていきたいですね。
─ これからのご活躍を楽しみに『報道ステーション』を拝見いたします。本日はありがとうございました。