てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「佐藤孝吉」篇

  • 公開日:
テレビ
#てれびのスキマ #テレビ
てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「佐藤孝吉」篇

てれびのスキマの温故知新~テレビの偉人たちに学ぶ~ 第2回

『アメリカ横断ウルトラクイズ』、『ピラミッド再現計画』、『ドミノ倒し』、『はじめてのおつかい』、映画化もされた『カルガモさんのお通りだ』などドキュメンタリー的手法で多くの大ヒット作を演出したのが佐藤孝吉氏だ。その功績が認められ、ディレクターがそのまま役員になることはあり得ないとされていたテレビ局の中で、取締役に昇格するという異例の出世を果たしたことでも知られている。


1959年、ドラマを作りたくて日本テレビに入社した佐藤だったが、満足した結果を残せずドラマ班を追われ、たどり着いた先が「後藤班」だった。

後藤班とは、プロ野球中継の基礎をつくったといわれるプロデューサー後藤達彦氏が率いるチーム。メインストリームを追われたはぐれものたちが集まり、野武士たちの梁山泊のようになっていた。それを後藤とともにまとめていたのが、「おマメ」という愛称のプロデューサー・石川一彦氏だった。

後藤班が当時手がけていたのは「政治からストリップまで」を掲げていた深夜番組『11PM』とゴールデンタイムの特番枠『木曜スペシャル』。

佐藤は『木曜スペシャル』で長嶋茂雄の引退試合特番や原子力空母エンタープライズの艦内撮影などドキュメンタリータッチの話題作を手がけた。果てはエジプトの砂漠に当時と同じ手法を再現してピラミッドを作ったりもした。

そんな佐藤のひとつの集大成といえるのが『アメリカ横断ウルトラクイズ』だった。『木曜スペシャル』内で10月から11月頃、2~4週にわたって放送された名物企画だ。

「勝てば天国、負ければ地獄!」「知力・体力・時の運!」「早く来い来い木曜日!」

日本中がそのフレーズを合言葉のように唱えた。番組は16年間続き、放送回数は65回。視聴率では1983年の34.5%を筆頭に、高視聴率を記録していった。

「ニューヨークへ行きたいかぁ!」

福留功男のアジテートとクイズをしながらアメリカを横断するというバカバカしくも壮大なスケールに若者たちは熱狂した。


だが、1977年、第1回大会はもともとわずか1週、つまり90分だけの放送予定だった。

佐藤にとって初めての視聴者参加番組。どう撮ったらいいのか、まったく想像もつかなかった。

しかも、クイズの旅は約1ヶ月にも及ぶのだ。果たして、参加希望者がいるのか不安でいっぱいだった。

予選の○×クイズ。会場は後楽園球場。

当日朝、実際に集まった出場者はわずか404人。

不安は的中だった。普通のクイズ番組で400人となればかなりの人数だが、会場は4万人近くを収容できる球場だ。仕方なく画面上少しでも大勢に見えるように、扇状に座ってもらった。失敗かもしれない。佐藤の脳裏にそんな思いがよぎった。

だが、問題が1問、また1問と続き、勝者と敗者とに残酷にわかれていくと、その雰囲気がガラリと変わった。

「日本人は、一体いつから、喜びや落胆を、こんなに、遠慮なく、見事に、そして、あけすけに、顔に出す民族に変わったのだろうか!?」(※1)

佐藤は驚嘆した。嬉しい誤算だった。

「一喜一憂の表情が、僕らの目の前に、洪水のように溢れた。人の喜怒哀楽を撮るのが僕らの仕事だが、その僕らが仰天した。こんなの、見たこともない」(※1)

凄い鉱脈を見つけた。佐藤はこの番組の成功を確信した。

「日本人を弾けさせよう! テレビカメラの前で。峻烈に、そして、あくまでも、上品に」(※1)

ならば、知識だけではなく、体力も運も試されるクイズにし、「敗者」にこそスポットをあてよう。だからこそ、最終予選は「ジャンケン」でなければならなかった。出場者の運と意気込みと人間味をむき出しにした。そして、敗れた者には無慈悲な「罰ゲーム」を与え、感情を揺さぶった。その結果、クイズを舞台にした唯一無二の人間ドキュメント番組が生まれたのだ。

旅の途中、プロデューサーの石川に佐藤は「2週連続で行きましょう!」と電話。1回限りの予定だった放送は2週連続になった。

翌年以降、倍々ゲームのように出場者は増え続け、放送回数も4週連続へと拡大されていったのだ。


1988年、佐藤に石川が「情報番組をやろう」と切り出した。今でこそ情報番組全盛だが、当時はほとんど例がなかった。

「茶の間から500メートル以内にある真実を撮るんだ。その向こうになんかがあるぞ」

その石川の言葉が佐藤の琴線に触れた。そうして生まれたのが月曜から金曜の19時から30分放送された帯番組『追跡』だった。

しかし、視聴率はたまに10%を超えるものの、大半が1桁台に低迷。約7ヶ月間、泥沼をもがき続けた。

そんな中、最初のヒット企画が生まれる。それは佐藤には思いもよらぬ「イカ」特集だった。当たるわけがないと思った企画が視聴率16.0%。なにが受けたんだろう。佐藤は改めてイカについて調べると、実は日本人が一番好きな魚なのではないかという推論に達した。

「そんなことも知らないで俺は番組をつくっていたんだって愕然とした。なのに大家気取りでやってしまっていたんだ。イカの向こうに日本人が見えるって初めてわかったんだよ」(※2)

石川が言う「なんかがある」の「なんか」は「日本」ということだったのだ。

思えば、佐藤はずっと「日本」あるいは「日本人」をテーマに撮り続けてきた。アメリカを舞台にした壮大なスケールの旅でも、茶の間から500メートル以内の「イカ」でも、その先に映っていたのは日本人の営みであり、人間性だ。それが映るのであれば極論、題材はなんだっていいのだ。

開眼した佐藤。やがて『追跡』は、「大家族もの」「行列のできる店」「取材拒否の店」などその後の情報番組の定番となるヒット企画を次々と生み出していった。

中でも最大のヒットとなったのは、現在でも特番で続く『はじめてのおつかい』だろう。幼い子供だけで「おつかい」に行く姿を映したドキュメントだ。

「はじめは泣いていた子の顔が、だんだん輝いてくる。使命に目覚めてくる」(※1)

その顔を撮るのだ。それは旅をしながら大人になっていく『ウルトラクイズ』のようであり、母の愛のムチと、子供のがんばりを見せる『カルガモさん』のようでもあり、ためてためて一気に動き出す『ドミノ倒し』のようでもあった。佐藤がこれまで培ってきたノウハウが凝縮されていたのだ。

だが、放送できるのは何百組ロケをして1本あるかないか。佐藤に強い影響を受けた土屋敏男は言う。

「あの番組は1000本撮って6本採用になるくらいの割合なんだそうです。ということは166本に1本。165回空振りする覚悟がないとあれはできない。166本目に"奇跡"が起こると信じてるからできるんです。普通はその勇気はない。でも、いま『はじめてのおつかい』をつくっている連中は、166本目でこの奇跡が起きることを佐藤孝吉に見せられ、その快感を知っているから、奇跡を目指せるんです。僕はこの奇跡を待つのがテレビ屋だと思うんです」(※2)

その執念が名作を生んだのだ。リミットまで1週間しかない状況で半分もできていなかったこともある。それでも絶対にヤラセはしなかった。頑張っていれば神様が応援してくれるんだと佐藤は笑う。「神様って知ってるんだよ、締切を」と。

2000年、『はじめてのおつかい』は橋田賞を受賞した。授賞式で佐藤はこんなスピーチをした。

「僕らは、とびっきり上手な作家さんと契約してますから......」(※1)

その作家とはもちろん、「神様」だ。


※1 佐藤孝吉:著『僕がテレビ屋サトーです』(文藝春秋)
※2 戸部田誠:著『全部やれ。日本テレビえげつない勝ち方』(文藝春秋)

<了>

関連記事