てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「菅原正豊」篇

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てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「菅原正豊」篇

てれびのスキマの温故知新~テレビの偉人たちに学ぶ~ 第3回

サブカル色の強い深夜番組『タモリ倶楽部』(テレビ朝日)、料理番組『どっちの料理ショー』(読売テレビ)や『チューボーですよ!』(TBS)、街の情報番組『出没!アド街ック天国』(テレビ東京)や『秘密のケンミンSHOW』(読売テレビ)、クイズ番組『世界はSHOW by ショーバイ!!』(日本テレビ)、そして音楽バラエティの『THE夜もヒッパレ』(日本テレビ)などなど、バラエティの名作を数々世に送り出してきた制作会社ハウフルスの菅原正豊氏。

80年代末には、『三宅裕司のいかすバンド天国』(TBS)で空前のバンドブームを巻き起こし、90年代後半にも『ボキャブラ天国』シリーズ(フジテレビ)からキャブラーと呼ばれる若手芸人たちの台頭が社会現象になった。

古くは70年代後半、『出没!!おもしろMAP』(テレビ朝日)内に登場したムキムキマンという大ヒットキャラクターも生んだ。また、伊丹十三監督の映画『タンポポ』(1985年制作)は菅原が『愛川欽也の探検レストラン』(テレビ朝日)で企画したラーメン屋再生計画が元ネタだ。

こうした数多くのブームやヒット、長寿番組を生んだ菅原だが、その大きな特徴は、それらの番組がいずれもひと目でハウフルス制作のものだとわかる、菅原色が強いということだ。

もうひとつの特徴は、前述のように扱うジャンルが多種多様だということ。ヒット番組を数多く残している演出家でも大抵の場合、演芸なら演芸、音楽なら音楽という風に同じ種類のものを手がけている場合が多い。特に音楽番組と他のバラエティ番組は演出のノウハウが異なり両立は難しい。しかし、菅原は、お笑いから料理や情報、そして音楽番組まであらゆるジャンルでヒット作を生み出している。

「僕の作るバラエティというのは、どっちかというと最初は全部パロディから始まっているんですよ。王道の音楽番組じゃないし、王道の料理番組じゃないし、王道のコントでもない。そのジャンルの専門家だと、ああいう風には作れない。『イカ天』の審査員に『ロックは魂だから』とか言ってプロレスラーのラッシャー木村を置いたりしないよね(笑)。僕が遊んでいるんです」(※1)

菅原の信念のひとつに「テレビは、ディレクターの遊び場であってほしい」(※2)というものがある。作る側に遊び心がないと、見ている人に喜んでもらうことはできない、と。だからこそ、「作り手はスケベじゃないとだめ」(※2)だと言うのだ。


そんな菅原のテレビディレクターとしての基礎を作ったのは『11PM』(日本テレビ/読売テレビ)だった。

『11PM』は、テレビに"深夜"という概念を作ったと言っても過言ではない"大人のワイドショー"である。政治・経済からお色気までおもしろいものならなんでも扱う文字通りの"バラエティ"番組だった。菅原はこの番組で大学3年の頃からADとして働くようになった。ディレクターは6人がローテーションで担当していたが、ADは菅原を含めわずか3人。激務だ。しかも、当時はいい意味でも悪い意味でも"いい加減"だった。

『11PM』は、一癖も二癖もある"はみ出し者"のディレクターたちの巣窟。彼らは自分の好きなことばかりをやりたい放題やったかと思うと、「あとはやっておいて」と遊びに行ってしまう。

菅原が「こんなことをやりませんか?」と提案すれば「あ、それおもしろいな」と言って、企画が通り任せてもらえる。キャリアもない学生アルバイトに番組を任せるなど今では考えられないことだ。この経験が、菅原の多種多様なジャンルを手がける原点になったのは間違いないだろう。

「楽しくて楽しくてたまらなかったですね。だって自分が考えたことが全部できるわけじゃない?このタレント入れたい、このモデル入れたいと言ったら実現するんですよ(笑)。もう好きなことができる。『11PM』から入ったから、僕はテレビが楽しいなと思った。もし、普通の歌番組とかドラマから入ったら、卒業して違うことをやったかもしれない」(※1)

寺山修司や伊丹十三、篠山紀信、横尾忠則、加納典明......様々なジャンルで最先端に立つ憧れのクリエイターたちと知り合い、交流することができた。大人の世界のカッコよさを目の当たりにした。

「こんなにカッコいい人たちがいるんだ......」

そんな感動から菅原のテレビマン人生が始まったのだ。

だが、テレビ局に入社することは叶わず、26歳の時、イベントやファッションショーの演出などを手がける企画会社を立ち上げた。やがて、30歳で初めてテレビ番組『出没!!おもしろMAP』を自社制作。テレビの世界に戻った菅原は、テレビ番組づくりに没頭していく。


"素敵に恥をかかせる"

それが菅原のポリシーである。

「(出演者に)出てよかったなというテレビにしたいじゃないですか、やっぱり。だからっていいところばっかり使ってもつまらない。恥をかいたほうがカッコいいんだから、やっぱり素敵に恥をかかせてやるのがディレクターの腕だと思うんです」(※1)

そんな菅原の"粘り"は有名だ。特に編集では妥協を許さない。24時間、いや48時間以上、編集所に籠りっぱなしということも珍しくなかった。編集はもちろん、タイトルやセットなどのデザインまで自分でやった。BGM、SEに至るまでこだわり抜く。それが自分の個性になり、結果的にブランドとなるのだ。

「全部やりたくなるんですよ。タイトルは自分で考えたものでいきたいし、セットだってそうだし。バラエティって白紙に絵を描いていくみたいなものだから、みんなと合議制で決めていくっていうわけにはいかないんですよ。誰か一人がある程度強引に引っ張っていかないといけない。"みんな"がつくった番組はおもしろくないですよ。テレビって、"誰か"がつくるものなんですよ」(※1)

主に80年代、ともに番組をつくった作家の小山薫堂は、菅原を「"ユルさ"を演出に変換した人」と評している。

「あらゆるものを受け入れる柔軟さと、絶対に他人に屈しない頑固さのようなものが共存している、懐の深い大人」だと。

しっかりと下準備した上で、現場で起きるハプニングを笑って受け入れる。

『チューボーですよ!』は料理研究家のグラハム・カーの『世界の料理ショー』を日本流にアレンジし、何でもこなせる器用な堺正章でやるつもりだった。しかし、堺は包丁を持ったことがないお坊ちゃま。料理はからっきしダメだった。初回、ボンゴレロッソを作っていると、火がバーンっと上がり、それを見た堺が逃げ出した。構想とはまるで違ったが、おもしろい番組になると確信した。

『ボキャブラ天国』でもリテイクを繰り返した自信のネタを初回に流した。しかし、スタジオは無反応。司会のタモリはそれを逆におもしろがって「だからやめようって言ったんだよ」と笑っている。冷や汗をかいたが、それだけに4本目のVTRでようやくドーンと笑いが起きた時の快感は格別だった。『イカ天』では女性出場者が突然パンツを脱いでしまうこともあった。その何が起こるか分からないワクワク感が堪らない。

「やっぱりスタジオって自分のドキュメンタリーみたいなところがあるんですよ。自分がこの何日間考えてきたいろいろなものが、さあどうなるかなっていう。自分自身のドキュメンタリーを見ている感覚なんです」(※1)

菅原はどこまでも"自分"を大切にしている。昨今、テレビのディレクターは誰もが楽しめるものをつくるべきで、クリエーターではいけないという風潮もある。けれど菅原は「クリエーターじゃなきゃいけない」と断言する。

「"見たそうなもの"をつくってもダメ。"見たいもの"をつくらないと。もっと自信を持って、どこかにディレクター魂がないと、どんどんテレビはバカにされちゃう」(※1)


※1『新潮45』2017年7月号より
※2『GALAC』2014年6月号より

<了>

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