【ふかわりょうの「魔法が解けたなら」】〜第7回 ラジオのこれから〜
【ふかわりょうの「魔法が解けたなら」】 第7回 <毎週金曜更新>
ここで、ラジオの話もしたいと思います。
子供の頃、買ってもらったのか、小さなラジオを初めて手にした時の感動は今でも覚えています。嬉しくて布団の中に潜って聴いたり。ダイヤルを回して聞こえる音は、ノイズさえも魅力的で。ラジカセを家族で囲む日曜の午後。ラジオ雑誌のタイムテーブルに蛍光ペンでチェックしたり、番組を録音したり。
オールド・メディアではありますが、もしも昨日までラジオがなくて、今日この世に初めてラジオが誕生したら、かなりセンセーショナルな発明だと思います。
「音だけ」というハンディキャップは、むしろ利点でもあり、時に映像以上の力を持つこともあります。また、何かをしながら聴けるので、ネットとの親和性も高く、仕事をしながらだったり、受験のお供だったり、テレビ以上に、ラジオが生活の一部になっている人は少なくありません。
「教習所なき車社会」
ネットの世界を例えるなら、私はこのように感じます。
誰もがいつでも簡単に、かつ自由に発信できることは素晴らしいことでもあると同時に、危険なことでもあります。チェック体制がなかったり、表現の経験を積まず、「教習所」も通わずに発信する、いわば無免許運転もOKという世界では、様々なところで事故や炎上が起きるのも必然。今後規約が厳しくなったとしても、それらは減らないでしょう。
ではラジオはどうでしょう。私の感覚では、「みんなが自転車に乗っている世界」。どこか平和で、どこかゆったりとした時間が流れています。大きな事故も炎上もあまり起こらない。気軽に寄り道をしたり、車では見えない自転車ならではの景色がそこにあります。
テレビではカットされてしまうようなパーソナルな話をすることもできますし、テレビのように「消費」されないので、ラジオを続けるアーティストも少なくありません。その分、声だけゆえに、良くも悪くも人間性を誤魔化せません。もちろん芸人さんの間でもラジオをやりたい人は多く、私もラジオ愛はテレビ愛と同様強く抱いています。
パーソナリティだけでなく、リスナーの言葉も電波に乗せ、生活や地域に寄り添った小さな情報も扱う。そんなラジオの中には、もはや絶滅しかけた「縁側文化」の香りが残っています。しかし、ビジネスという点で捉えた時、ラジオの未来は決して明るいものではないかもしれません。
スマホのアプリで聴けるようにはなりましたが、その存在自体を知らない人も多く、そもそもラジオを聴く習慣がない人は、ラジオに出会う前にYouTubeに奪われてしまいます。出演者側も、ラジオ番組をラジオ局からではなく、YouTubeで生配信できてしまう現状。なかなか前途は多難な様相。
震災の時、ラジオの存在感が際立ちました。テレビが「不安」だったのに対し、ラジオは我々に「安心」を与えてくれました。ラジオの役割。テレビが大河なら、ラジオは小川。地域に流れる小さな川。川のせせらぎのような「安心」を人々に届けてくれるもの。そういう意味で、活気のある「道の駅」のような存在をラジオは目指すべきでしょう。「大型ショッピングモール」になる必要はないのです。
新聞、雑誌、ラジオ、そしてテレビ。今、それぞれが分岐点を越えつつあります。雑誌は廃刊が後を絶たず、新聞もオンラインに切り替え、テレビはネット同時配信へ。ラジカセは消え、ラジオはスマホで聴くものになりました。これからのテレビに必要なものが「信用と信念」なら、ラジオのそれは「愛着」ではないでしょうか。アンテナの向きを変えながら聴いていた、あの頃。聴き方は変わっても、ラジオはメディア界の「道の駅」として、いつまでも愛される存在であって欲しいものです。
<了>