【ふかわりょうの「魔法が解けたなら」】〜第8回 テレビと笑い〜
【ふかわりょうの「魔法が解けたなら」】 第8回 <毎週金曜更新>
テレビはこれまでお茶の間にたくさんの笑いを届けてきました。テレビの中の笑いが、世の中の笑いを牽引し、時代を創ってきました。
テレビの笑いで大人になった私も、あまり好きではないタイプの笑いがあります。
まず一つは、人を殴ることによる笑い。
テレビの中でしばしば見かける、ビンタや蹴りなどで生じる笑い。学生の頃も、プロレスごっこなのか、ドロップキックで相手が吹きとばされるのを見て笑う者もいましたが、どうしても共感できませんでした。暴力やいじめに繋がるからではありません。それを面白いと思う人の感性は否定しませんが、私は、面白いと思えませんでした。
もう一つは、生き物を使った笑い。
ほのぼのとした「笑い」はあってもいいのですが、リアクションを取らせるために、グラビアアイドルの前に蛇が投げ込まれたり、箱の中に生き物を閉じ込めて穴から触らせたり。動物たちがバラエティーの道具として使用される類。女性が怖がって「きゃー」と叫べば叫ぶほど、気持ちは萎えました。動物たちの方が怖がっていたことでしょう。動物愛護ということではなく、動物たちがかわいそうという気持ちが勝って、笑える心境ではなくなります。
こういったものがどんどんテレビからなくなってほしい。しかし数年前、目を疑う光景に遭いました。アスリートの技術がいかに素晴らしいかを見せる番組。プロゴルファーや野球選手が的に向かってボールを打つのですが、その的が、「卵」だったのです。本物の。大きなダチョウの卵に向かって打ち、命中すると、スローモーションで卵が木っ端微塵になる映像が流れます。的は徐々に小さくなり、やがて鶏卵へ。どうしてガッツポーズできるのか。どうして笑顔になれるのか。果たして、本物の卵を使う必要があったのか。放送時間帯のせいか、大きな騒ぎにならなかったことにむしろ恐怖すら感じました。
小学生の頃、校庭に入ってきた野良犬に笑いながら水をかける上級生たち。それを見て起きる周囲の笑い。とある高校の教室。生徒が調子に乗って先生に蹴りを入れ、クラスが笑いに包まれる動画。先生にとって一番の痛みは、蹴られたことではなく、笑われたことでしょう。笑いは時に、凶器になりうる。誰かを傷つけて生じる笑いはもう、少なくともテレビの中ではあってはいけない。
太っている人が機敏に踊っているだけで日本では「笑い」に繋がることもありますが、海外では決してそうではありません。太っていることや、頭髪の薄さを笑うのは日本特有のものでしょう。これらも今後テレビから消えるといいと思っています。
何を面白いと思うか、それは個人の自由ですし、私の感覚が正しいとも言えません。しかし、テレビの中は慎重でなければなりません。不特定多数の人が見ているから。誰かを傷つけてはいけない。当事者が見ているかどうかは関係ありません。傷つく人がいるかもしれない「笑い」を、もう視聴者は受け付けなくなっています。
また最近では、バラエティー番組が炎上するたびに、「面白くなくなる」とか、「表現の幅が狭くなる」と言われますが、それは間違っています。どんなに限られた枠組みであっても、表現の幅は狭くなりません。むしろ制約こそ、無限の可能性を秘めていることは、俳句や短歌が証明しています。必ず他のやり方が見つかるはず。それを模索せずただ文句を言うのは、クリエイターの言い訳。「笑い」は時代や風潮に敏感です。スタジオの空気ではなく、世の中の風向きを読みながら、新鮮な「笑い」をテレビは届けて欲しいです。
<了>