【ふかわりょうの「魔法が解けたなら」】〜第9回 いのちとメディア〜
【ふかわりょうの「魔法が解けたなら」】 第9回 <毎週金曜更新>
東日本大震災の時、テレビは多くの「命」を伝えました。多くの「被害」「現実」を伝えました。何が起きているのかを伝える使命と、目を背けたくなるものにもレンズを向ける意義。その一方で、災害が起こるたびにマスコミの報道の仕方に違和感を覚えることもあります。
伝えたい気持ちが強くなりすぎて、力が入りすぎて、いつの間にか犠牲となった「命」を報道の「ネタ」として扱うようになってしまう。レンズを向けるうちに、「テレビ映え」するかどうかという基準が生まれてしまう。数字を取れる被災。数字に繋がらない被災。カメラが1箇所に集中したため、「復興バブル」という言葉も生まれました。報道する使命につきまとう矛盾。
「撮るんじゃないよ!」
避難所で「見世物じゃない!」と激昂する者もいれば、
「どうしてカメラが来てくれないんだ!」
と、被災しているのに報じられないことに憤る声。
果たして、カメラはどこにレンズを向けるべきなのか。
かつて「白衣の天使 密着24時」という番組がありました。女性看護師の過酷な24時間に密着したドキュメント。「警視庁24時」などと並んで、ゴールデンタイムに放送されていたヒット・コンテンツ。その中で必ず訪れるのが、患者との死別。
誰も寝ていないベッドに敷かれるまっさらなシーツは視聴者の涙を誘います。そのシーンを撮るために、もうすぐ亡くなる患者をあらかじめリサーチする。命の尊さを伝えるために選ぶ手段は、命を軽視している矛盾。
カーレースの衝撃映像。物凄い勢いで群衆に向かっていく車。果たして衝突は避けられるのか、ギリギリのところでCMに突入。『助かったかどうか、それはCMの後』という引っ張りは、クイズ番組のそれとは違います。人の命を利用している。たとえ助かったとしても、命を軽視している演出ではないか。
「ハゲワシと少女」(*少年という説もあります)
ピューリッツァー賞を受賞した有名な写真。その一枚によって紛争がいかに過酷なものかをどんな言葉よりも強く、見る者に突きつけます。賞賛される一方で、撮影する前に助けるべきとの非難の声。カメラマンである前に、一人の人間であるべきなのか。もちろんカメラマンはシャッターを数回切ったのちに、ハゲワシを追い払いました。それでも非難の声は止まず、結局、彼は自死を選びます。その一枚で、多くの命を守ったかもしれないのに。
災害が起きている中でバラエティー番組なんて不謹慎だという声もあります。しかし、もしかしたら、その番組が誰かの心を癒すことで命を救う可能性だってあります。数にはカウントされていない命を、テレビは日々、救っているのだと信じています。
マスコミは暴走するエンジンを積んでいる。しかし、燃料は国民の関心。関心を得れば、マスコミは走る。ブレーキはありません。関心がなくなるか、他の目的地が見つかるまで。かつて、日航機墜落事故の際、被害者にマイクを向けるレポーターがいました。今では考えられないような取材態勢がありました。
命の尊さを伝えるために、命を軽視していないだろうか。メディアは常に矛盾と闘いながら、今日もレンズを向けるのでしょう。
<了>