【ふかわりょうの魔法が解けたなら】〜最終回 魔法が解けたなら〜
テレビに携わる一人として、ふかわりょうさんが、わかりやすく、且つ愛をもって、テレビの魔法が解けたらどうなってしまうかをテーマに綴られた当連載。第一回で「大河」と表現したテレビの在り様、役割を、全12回プラス番外編を通じてお届けしました。いよいよ最終回。最後にふかわさんが伝えたいこと、是非ご一読ください。
【ふかわりょうの「魔法が解けたなら」】 最終回 <毎週金曜更新>
ということで、12回にわたって毎週お送りしてきました「魔法が解けたなら」いかがでしたでしょうか。
おそらく「偉そうなこと言いやがって」と不快に思われた方も多かったと思います。自分でもびっくりするほど生意気で、こんなにも可愛げがない文章をよくも毎週書けたと思いますが、同時に自分でもびっくりするほどテレビを愛していることに気付きました。
初回で申し上げた通り、私はテレビを観て育ち、テレビで世の中を知り、憧れ、大人になりました。幸運にも、テレビの中に入ることができ、こうして今も活動させてもらっているわけですが、いつまでこの中に居られるかわかりません。
テレビという大きなテーマパークのキャストとして一日でも長くいられたら、それが私の願いであり、恩返しの気持ち。
かつて、東欧のテレビ番組を見る機会がありました。社会情勢が不安定な国。バラエティー番組なんてないのではと思っていたら、映し出されたのは笑い声が響くコント番組。そこには当時の社会主義国ならではの陰鬱さはどこにもなく、むしろ日常の窮屈さを逆手にとった笑い。社会情勢という共通認識を利用した、とてもユーモラスなシーンでした。
「笑っていいとも!」の前にフジテレビで放送されていた「笑ってる場合ですよ!」という番組。幼すぎて細かなことは覚えていないのですが、ただただ賑やかな雰囲気だったことを記憶しています。当時の社会は徐々にバブルへ向かう頃でしょうか。
それから数十年。今は「笑っている場合じゃないだろ」と咎められることが増えました。いつの間にか、テレビが責められる存在になり、徐々に肩身が狭くなりました。映画館でコメディー映画がやっていてもそれほど目くじらをたてる人はいませんが、テレビは公共の電波を使用しているので、公共性の高さがそのような風潮を生み出すのかもしれません。ただ、YouTubeに関しても、現在はかつてほど自由度は高くない印象を受けます。これから動画コンテンツはどうなっていくのでしょう。
日本の笑いは繊細ゆえに、良くも悪くも「笑い」へのこだわりがあります。「笑い」というものに非常に敏感。「笑い」を競うというのはとても文化レベルが高いと思いますが、言い換えると「笑い」に厳しいとも言えるかもしれません。面白いという幅が狭い人もいれば、なんでも面白いと享受できる人もいる。もっと笑いに寛容でもいいような気がします。
「テレビ離れ」という言葉を相変わらず耳にしますが、私は、このこと自体はさほど深刻に捉えていません。なぜなら、そんなに離れていないからです。確かに、テレビの前にいる時間は減ったかもしれませんが、テレビの恩恵に気づいていないだけなのです。目の前の小川が、大河からの支流であることに気づかずに、「私はテレビを見ない」と言っているだけなのです。
YouTubeから生まれたスターもいますが、今やチャンネル登録者数200万近くにものぼる江頭2:50さんも、彼を全国区のスターにしたのはテレビです。テレビというテーマパークの中で生まれたスター。テレビを見ていないという人も、実はテレビの恩恵を間接的に受けている。
最近は芸能人が挙ってYouTubeチャンネルを開設していますが、10年後はどうなっているでしょう。視聴数が全てではないですが、誰もが成功するわけではなく、テレビと類似した動画をあげてもあまり関心を集めないようです。そう考えると、YouTubeだけでやっていくというのは、ある意味とても過酷なことかもしれません。
テレビは団体芸なので、自分がやりたいことをできるとは限りません。また、数字が良くても終わる場合はあります。そういう意味では、YouTubeは自分の意思で継続も終了もできますが、それだけ意思が強くないと続かないもの。自由度が高いというのは決して楽なことではないと私は思います。
これからテレビは、単に映像を映すものとしての役割が強くなり、テレビを観ているからと言ってそれがテレビ番組とは限らず、スマホを観ているからと言ってそれがネット番組とも限らなくなってきます。視聴者も、見ている動画がネットかテレビかなど気にしなくなるでしょう。一個人がチャンネルを持ち、「テレビ番組らしさ」というものにどれほど価値があるのかわかりません。それでもテレビ番組はこれからもずっと、大河として時代を流れてゆくと、私は信じています。たとえ、魔法が解けたとしても。
<了>