てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「砂田実」篇

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てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「砂田実」篇

てれびのスキマの温故知新~テレビの偉人たちに学ぶ~ 第7回

かつてテレビ界には「ショクナイの帝王」と呼ばれた男がいた。久世光彦、実相寺昭雄、今野勉らとともに草創期のTBSを支えた砂田実氏である。「ショクナイ」とは「内職」をジャズマン流に逆さにした言葉。会社を通していない仕事、最近よく使われる言葉で言えば「闇営業」のことだ。

砂田はTBSの社員でありながら、数多くのヒットCMや、コンサートなどのステージ演出を手掛けた。それどころか、フジテレビ、つまり他局の番組の作家も務めるという今ではあり得ない"暴挙"をしていたのだ。


砂田実は、中学時代は青島幸男や椙山浩一(すぎやまこういち)と机を並べ、放課後には3人で毎日のように遊んでいた。高校・大学の同期には、劇団四季を作る浅利慶太、日下武史、作曲家となる林光、フルート奏者の峰岸壮一などがおり、錚々たる才能に囲まれて育った。砂田は、早くから才能を開花させる彼らを見て劣等感を抱かずにはいられなかった。

そんな折、画期的な新メディアとして「テレビ」が登場した。砂田がテレビ局を就職先に選んだのは「新しいメディアを作ってやる!」といった積極的なものではなく、「これなら、自分でもなんとなくできるだろう」という消極的なものだった。だが、一方で「お前、テレビぐらいで一流になれなかったらどうするよ」(※1)という気概もあった。1955年、ラジオ東京(のちのTBS)に入社すると、短期間のAD修行ののち、砂田はテレビ部門の音楽班に配属された。


「砂田君、僕のやっている番組のヘルプしてくれない?」

入社して4年ほど経った1959年、中学時代からの旧友・椙山から電話がかかってきた。椙山といえば、今や「すぎやまこういち」として『ドラゴンクエストシリーズ』をはじめとするゲーム音楽などを手掛けた、"一流作曲家"としてのほうが有名だが、もともとは、テレビのディレクターとしてそのキャリアを本格的にスタートさせた。1958年、彼は開局準備中だったフジテレビに入社したのだ。

椙山はすぐにその才能を発揮し、入社翌年には『おとなの漫画』のディレクターを務め始めた。椙山は砂田に「この番組の台本を書いてくれないか?」と言うのだ。「とにかくクレイジーキャッツをこの番組でスターに押し上げたいんだ」(※1)と。

『おとなの漫画』は、その日の朝刊からネタを拾って、時事問題を風刺にしたコントを即生本番で行うという10分間のお昼の帯番組。テレビタレントとしてはまだ駆け出しのハナ肇とクレイジーキャッツがレギュラー出演していた。

今考えても、演者にとっても作り手にとってもかなりハードな内容。そのため局が呼んできた作家陣では対応できず、クビにしたという。そこで孤軍奮闘していたのが、やはり椙山の旧友である青島幸男だった。そこに助っ人として砂田に入ってほしいというのだ。いくら友人関係にあるといえ、他局の番組だ。いわば敵対関係にある。そんなことがバレたらただではすまされない。けれど、砂田は迷わず答えた。

「おもしろそうだ。やらせてください。」


もちろん砂田はTBSの番組でも大きな功績を残している。中でも『日本レコード大賞』が国民的な番組になったことに砂田は多大な役割を果たした。

もともと『レコード大賞』は、現在放送中の朝ドラ『エール』で野田洋次郎が演じる「木枯正人」のモデルといわれる古賀政男や服部良一を中心とした日本作曲家協会が、グラミー賞をヒントに、優れた楽曲を讃えようと企画したもの。それを服部がTBSに持ち込んだのだった。これに他局はもちろん、レコード会社などの音楽業界は反発した。賞から漏れた時、メンツが立たないからだ。

番組実現のため各レコード会社らとの交渉役に抜擢されたのが、ちょうど『おとなの漫画』の「ショクナイ」をやり始めていたばかり、若干29歳の砂田だった。顔を突き合わせ根気強く説得を繰り返し、遂に『日本レコード大賞』が始まったのだ。


けれど、最初はローカル枠でしかなかった。番組開始から10年。『レコード大賞』は大きな転機を迎え、大躍進することになる。そこでも大きな役割を果たしたのが砂田だった。

まず、最大の変更点は、NHKの『紅白歌合戦』と同じ12月31日大晦日に生放送すること。そこで、NHKホールに対抗すべく、最高のステータスの劇場で開催することになった。その舞台に相応しいのは、新装成したばかりの帝国劇場以外には考えられなかった。

当時帝劇は、菊田一夫が仕切っていた。菊田は帝劇を「自分が生んだ劇場」だと思い、「本当に自分の子供のように大切」にしていた。それを「貸し小屋」のような形で、しかも当時の劇場関係者からは評判が最悪だったテレビになんか貸すわけがないと思われていた。けれど、砂田は「『それは無理だよ』とみんなが腰を引いてしまう目標であれば、よけいに燃えてやり甲斐を感じる質」(※1)だった。

砂田は菊田にたった1人で面会に行き、いかに『レコード大賞』にとって帝劇という舞台が必要不可欠かを熱心に訴えた。しかし、菊田はきっぱりとこう答えた。

「そんなことは百も承知だよ。でも、イヤなんだよね、帝劇を僕以外の仕事で使われるのは」(※1)

それでも、砂田は何度となく菊田の元に足を運び、必死で説得を繰り返した。その際、決して上司や局の重役などを連れて行かず、たった1人で行くことにこだわった。やがて、遂に菊田は折れた。菊田は立場を持った人間の力で訴えられるより、現場の人間の必死さが好きだったのだ。

砂田はいつだってそうだった。

「困難と思われる仕事では、本陣に斬り込んで大将と相対することで目的を達してきた。常識、慣習、通例などにとらわれず、ゲリラ的戦法で突破することで困難な道も開けるのだ」(※1)と。


絶対に無理だとか、それはダメだといわれるようなことを、常識にとらわれずにぶち壊す「ショクナイ」魂で、一点突破を試み開拓していった砂田実。彼のその精神によって、『日本レコード大賞』は加速度的に大きくなっていき、一時は『紅白』と並ぶ国民的な行事となったのだ。


※1 砂田実:著『気楽な稼業ときたもんだ』(無双舎)


<了>

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