【小西 未来のハリウッドのいま、日本のミライ】米興行界の復活のシンボル「TENET テネット」は、予定通りに公開できるのか?
現在ハリウッドで活躍する映画監督に値付けをするとすれば、おそらくクリストファー・ノーラン監督に最高額がつくだろう。なにしろ、「ダークナイト」シリーズをはじめ、「インセプション」「インターステラー」「ダンケルク」と彼の作品はコンスタントにヒットを飛ばしているし、そのほとんどがオリジナル作品である。ハリウッド大作の大半が続編や原作に依存しているなかで、自ら企画を立ち上げ、ヒットに繋げているのだ。
おまけに、かなりのハイペースだ。たとえば、ジェームズ・キャメロン監督は、「タイタニック」や「アバター」といった歴代興行トップを飾ったオリジナル映画を放っているものの、前作「アバター」が2009年、その前の「タイタニック」が1997年に封切られたことからもわかるように、かなりの寡作である。
一方のノーラン監督は、自身で脚本を執筆しているにもかかわらず、2~3年のペースで新作を発表している。つまり、質と量を兼ね備えたヒットメーカーなのだ。作家性と大衆性、エンターテインメント性と難解さ、と相反する要素をもった希有なクリエイターなのである。
「TENET テネット」は、ノーラン監督の待望の最新作である。アカデミー賞8部門ノミネートを獲得した前作「ダンケルク」では史実ものに初挑戦した彼だが、本作ではお馴染みのSFの世界に戻ってきた。いつものように肝心の内容については明かされていないが、第三次世界大戦の勃発を阻止しようとするスパイの物語で、時間が逆回転する世界を舞台にしているようだ。ちなみにタイトルは「主義」や「信条」という意味で、前から読んでも後ろから読んでも同じ綴りであることにも意味が込められていそうだ。
いまアメリカの映画界において、「TENET テネット」はヒットメーカーの最新作以上の意味を帯びてきている。新型コロナウィルスの感染拡大を受けて、「007/ノー・タイム・トゥ・ダイ」を皮切りに、「ワイルド・スピード/ジェットブレイク」「クワイエット・プレイスPART II」「ムーラン」「ブラック・ウィドウ」「ワンダーウーマン 1984」「エターナルズ」などの大作映画が相次いで公開延期となった。
3月下旬から全米の映画館が事実上すべて閉鎖されているなか、米ワーナー・ブラザースは7月17日全米公開予定の「TENET テネット」をいまだに延期せずにいる。その背景には、クリストファー・ノーラン監督の強い意向があるとみられている。
ノーラン監督といえば、映画文化の保存と維持に強いこだわりを持っていることで知られている。フィルム撮影を途絶えさせないために、デジタル全盛のなかでも一貫してフィルムで撮影しており、クエンティン・タランティーノ、J・J・エイブラムス、ジャド・アパトーらとロビー活動を行い、米コダック社が映画用フィルムを生産しつづけられるように、米メジャースタジオに製造・供給契約を結ばせることに成功している。さらに、大型スクリーンを展開するIMAX劇場向けに専用カメラを積極的に使用し、観客に最高の没入体験を提供している。子供時代に見たスタンリー・キューブリック監督の「2001年宇宙の旅」に打ちのめされたノーラン監督は、同様の体験をいまの観客に届けようとしているのだ。
全米の劇場チェーンが相次いで閉鎖を発表した3月下旬、ノーラン監督は米ワシントン・ポスト紙に手記を寄稿(※)。「Movie theaters are a vital part of American social life. They will need our help.」(映画館はアメリカの社交生活に不可欠である。彼らは我々の助けを必要としている)と題した手記を通じて、米政府に支援を求めた。
「この危機が過ぎ去ったとき、集合的なイベントの必要性や、一緒の時間を過ごし、愛し、笑い、泣きたいという需要は、これまでないものになるでしょう。この鬱積した需要が、新作映画への期待と合わさって、地方経済と国家経済に何十億ドルもの恩恵をもたらすはずです。アメリカの映画業界で働く15万人の人々を手助けするためだけでなく、自分たちのためにも映画館を支援する必要があります。わたしたちはみんな、映画が提供するものを必要としているのですから」
ノーラン監督が手記を発表してから2ヶ月が経過した。他のハリウッド大作が公開延期となるなかで、「TENET テネット」の全米公開日(7月17日)は変わっていない。そして、いまアメリカの各州で経済活動が再開しつつある。規制緩和に伴い、新規感染者が増加している州もあるため、全米の映画館がすぐに再開するわけではない。しかるべき安全対策が必要だし、再開したとしても観客を呼びこむための新作映画が存在しない。
こうした状況を鑑みて、大手チェーンは6月から準備を開始し、7月の営業再開が妥当との考えを示している。そして、彼らが平常化の照準としているのが、ノーラン監督の「TENET テネット」なのだ。つまり、アメリカの映画館の復活のシンボルとして期待されているのだ。
だが、現時点で「TENET テネット」が予定通り公開されるかどうかは、不透明だ。アメリカを第2波が襲えば再開計画は吹き飛んでしまうし、甚大な被害を受けているニューヨークとロサンゼルスが7月までに映画館再開まで到達できるか分からない。映画館が開いたとしても、コロナ渦のなかで警戒している観客が、すぐに戻ってくるかどうかも不明だ。
「TENET テネット」は制作費2億ドルをかけた超大作のため、赤字を回避するためには少なくともその2、3倍の興収が必要となる。配給が手にするのは興行側の取り分を差し引いた約半分になるし、超大作には大量の広告宣伝費を投入する必要があるからだ。制作・配給を手がける米ワーナー・ブラザースの本音としては、コロナの沈静化を待って、万全の状況で世界公開に踏み切りたいところだろう。現状で公開するのは不確定要素が多すぎる。
だが、経済論理を振りかざして、「TENET テネット」の公開延期を容易に決定できない事情がある。2002年の「インソムニア」以来、映画を提供してくれているクリストファー・ノーラン監督との関係にひびを入れてしまうことになるからだ。監督にとっては、瀕死の状態にある興行関係者を支援するとともに、人々に映画館で映画を楽しむ喜びを提供するのが重要なのだ。コロナの影響でポストプロダクション施設が使えないなか、リモートワークを駆使して、完成を間に合わせるつもりだという。
「TENET テネット」が果たして予定通りに公開されるのか、注目である。
(※)https://www.washingtonpost.com/opinions/2020/03/20/christopher-nolan-movie-theaters-are-vital-part-american-social-life-they-will-need-our-help/
<了>