てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「石田弘」篇
てれびのスキマの温故知新~テレビの偉人たちに学ぶ~ 第8回
石田弘氏、その名よりも「ダーイシ」と呼ぶほうが馴染みがあるかもしれない。言わずとしれた『とんねるずのみなさんのおかげです。』(フジテレビ)などを手掛けた名プロデューサーである。
大学時代からフジテレビでアルバイトを始め、そのままフジテレビに入社。フジテレビの制作部門分社化を受け、フジ制作に出向し、音楽番組を手掛けるようになった。キャロルが初めてテレビ出演したことでも知られる伝説的音楽番組『リブ・ヤング!』では演出を担当。一見、華々しいテレビマン人生を謳歌しているように見えるが、本人からしてみたらそんなことはなかった。
30代の頃は、まったくアウトローだったと本人は振り返っている。メジャーな番組に参加してもそれをすぐに終わらせてしまう。結果、なかなか番組を担当させてもらえなくなっていった。ゴールデンタイムの番組でも、お昼の番組でも、深夜番組でも失敗。「1クールの石田」とまで揶揄されていたという。だから「腐って」しまった。
たとえば『アップルハウス』(フジテレビ)という"幻の番組"がある。司会は加藤和彦と竹内まりや。スネークマンショーの桑原茂一をブレーン的な立場に置き、土曜夜7時半という時間帯にも関わらず斬新なアイディアを数多く取り入れた。
「なにしろオープニングテーマなんかレッド・ツェッペリンのアルバム『フィジカル・グラフィティ』のジャケットそっくりのアニメを作って、出演するゲストたちが窓から顔を出すようにしたものに、バグルスの『ラジオ・スターの悲劇』を真似して作った曲を流したんです」(※1)
当然、新しすぎてまったく理解されず、低視聴率のままわずか半年で終了した。
80年代、フジテレビのバラエティ制作部は、『クイズ・ドレミファドン!』や『なるほど!ザ・ワールド』などファミリー層向けのクイズバラエティを得意とする王東順率いる王班と、『オレたちひょうきん族』や『笑っていいとも!』など若者向けバラエティ番組でフジテレビ黄金時代を牽引した横澤彪率いる横澤班、そして『MUSIC FAIR』など音楽系番組を手がけていた石田弘の石田班という3つの大きなグループが存在していた。
実績抜群の王班や、日の出の勢いの横澤班に、当時の石田班は大きく水をあけられてしまっていた。
特に横澤班の躍進のきっかけとなった『THE MANZAI』の枠は当初、音楽班に打診された。それを断った結果、横澤が『THE MANZAI』を当てたのだ。だから「どうして(音楽班で)こういう番組ができないんだよ」と石田は悔しがっていたという。
そんな頃、上司から土曜深夜の『素敵なあなた』の枠で生番組をやれ、と命じられた。当時その枠はいわゆる"死に枠"。視聴率がまったく期待できない枠だった。だから予算も限られていた。だが、往々にして、こうした誰からも期待されていない時にこそ、大ヒット番組は生まれるものだ。『THE MANZAI』だってそうだった。
低予算だったこともあり、当初は女性アナウンサーを並べようと考えていた。だが、当時編成局長だった日枝久に「もっとアパッチなことを考えろ!」と言われた。そこで目をつけたのが「女子大生」だった。「アパッチ」を「大胆なことをやれ」という意味に解釈したのだ。
その頃、『女子大生亡国論』という言葉が流行したり、ラジオでは女子大生によるディスクジョッキー「ミスDJ」が人気を博し、「女子大生」が注目を浴び始めていた。そこで、石田は素人の女子大生を出演者として並べ、『オールナイトフジ』をスタートさせた。
彼女たちは素人ゆえ、台本もまともに読めない。噛んでしまったり、普通は読めるような漢字を読むことができなかったりする。スポンサーの会社名さえ間違えてしまう。段取りも悪い。だが、その素人感が新鮮で受けたのだ。
それまでテレビは「きちんと成立させる」ことが常識だった。仮にそれができなかったとしても、できるように努力しているのを見せるのがテレビだった。だが、『オールナイトフジ』は違っていた。女子大生たちは、トチり、詰まり、困るのが当たり前。できなくても、彼女たちは笑ってごまかした。それどころか、ふて腐れたりもした。けれど、それを良しとしたのだ。
石田にはある狙いがあった。「(開始)3ヶ月で文春とか新潮とか堅めの週刊誌に叩かれでもしない限り、深夜の番組が話題になるわけない」(※1)と考えたのだ。その思惑通り、「フジテレビの軽薄番組」などと叩かれ、知名度が上昇。それと比例するように、番組のおもしろさが伝わっていき、「女子大生ブーム」を巻き起こした。
開始から半年で、当初2%前後だった視聴率は上昇を続け、当時の深夜番組としては異例の4~5%程の視聴率を記録。その結果、不毛な時間帯と言われた土曜深夜帯での『オールナイトフジ』の好調を見た他局は相次いで『TV海賊チャンネル』(日本テレビ)、『ミッドナイトin六本木』(テレビ朝日)、『ハロー!ミッドナイト』(TBS)など後発番組をスタートさせた。『オールナイトフジ』はテレビの時間枠をも開拓していったのだ。
石田は前述の『アップルハウス』などの失敗で、ある考えに至った。
「これからはダサい感じでやろう」(※1)と。
「オールナイターズ」や「おかわりシスターズ」などのネーミングも、そうした"哲学"に基づいたものだった。この番組から派生して生まれた『夕やけニャンニャン』や、「おニャン子クラブ」といった名前もあえてダサくして引っかかりを作りヒットさせたのだ。
また、この2つの番組で重用したとんねるずもまたたく間に大ブレイクしていく。
そして石橋貴明が日枝に「火曜ワイドスペシャルの枠をください。視聴率必ず30パーセント以上取ります」と直訴。「視聴率30パーセント取れなかったらどうする?」と問う日枝に石橋は「(石田)プロデューサーを箱根の彫刻の森美術館に飛ばしてください」と返した。その答えに大笑いし、その場で『とんねるずのみなさんのおかげです。』の特番が決まったのだ。
いわば石田弘の"クビ"をかけ始まった番組は、フジテレビを代表する番組へと成長していき、石田弘と石田班をテレビのど真ん中に押し上げたのだ。
※1「Musicman」2008年10月15日インタビュー https://www.musicman.co.jp/interview/19572
<了>