てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「丸山鐵雄」篇

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てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「丸山鐵雄」篇

てれびのスキマの温故知新~テレビの偉人たちに学ぶ~ 第13回

朝ドラ『エール』では作曲家・古関裕而をモデルとする古山裕一(窪田正孝)の生涯が描かれていた。

その中で大きな話題となったのは戦争の描き方である。女性を主人公とすることが多い朝ドラにとって、戦争はターニングポイントとして描かれることはあっても、真正面から描かれることは少なかった。だが、軍歌・戦時歌謡の名手であることで知られる彼の生涯を描く上で戦争は外せない。今回の朝ドラでは、異例なほど丁寧に描かれていた。

今、戦争を描くと、当初から戦争に対し疑問に思っている人物にしがちだが、窪田扮する古山は、音楽家としての無邪気さが勝ち、むしろ積極的に戦意高揚の曲を作ることで結果的に戦争に協力していく、という人物として描かれた。そんな古山に「ニュース歌謡」の作曲を依頼したのが日本放送協会(NHK)の職員・丸井(森本のぶ)だった。この人物のモデルこそ、丸山鐵雄だと思われる。


黒柳徹子の才能をいち早く見出し『ヤン坊ニン坊トン坊』で彼女を抜擢した劇作家・ 飯沢匡は、丸山を「NHKでの番組史上、まことに珍しい硬骨番組ともいうべき風刺番組の発案者であり、また推進者」と評している。それは三木鶏郎が爆発的人気を得るきっかけとなったラジオ番組『日曜娯楽版』のことだっだ。丸山はそのプロデューサーを務めた。

時事コントを織り交ぜた音楽番組を作りたいという三木と丸山の共通の思いを成就させた革新的な政治風刺、社会風刺番組だった。司会の番組進行で歌や漫才、コントを披露するバラエティ番組の嚆矢ともいえる番組だ。


丸山は1934年、京都大学を卒業後、大阪市住吉区役所に採用され社会人生活をスタートさせた。だが、その年の10月には日本放送協会の採用試験に合格し、転職した。

NHKでは、現在の編成局にあたる「放送編成会」に配属され、娯楽番組の編成助手を務めた。

その一方で、新聞や雑誌で執筆活動も行った。1937年から1939年にかけて「芸能界の拝金主義や時局迎合を批判し揶揄した風刺」を、「洒落や替え歌などを織り交ぜ」た表現で寄稿。戦争演劇の氾濫や、娯楽を抑圧する「国策」を痛烈に風刺していたという。まさに『日曜娯楽版』の原型ともいえるものを残し、新劇の劇団では演出も行ったりしていた。


戦争が長期化していくと独自の「抵抗」を始める。雑誌『放送』の誌面の中で、編成や番組制作から戦争への緊張と萎縮を取り除くこと、あるいは軽減することを主張し、一貫して「寛ろぎと潤ひ」が必要であると説いていた。丸山は、当局がいかに戦争に駆り立て、抑圧しようとしても、「大衆」は、娯楽と慰安を求めずにはいられないと考えた。

この頃、放送にとって大きな命題となっていたのは「指導性」と「大衆性」だ。放送は、大衆を指導するものという考え方が一般的だったが、丸山は一貫してそうではないという立場をとった。

「大衆が他人だと思ふからいけないのだ。我々が大衆なんだからな。大衆が何か我々より低いものであって、何を教へてやらなければいかんとか指導してやらなければいかんとかいふからをかしなことになつて来る。我々自身が大衆なんだよ。我々が面白いものならいいのではないか」と『戦争下の放送文化』の中で語っている(※)。


1940年には文芸部・演芸課に異動。『時事歌謡』という番組を手掛けた後、古山らとともに「ニュース歌謡」を生み出した。

彼は戦時中も国策臭がするものを嫌い、誰もが分かりやすく面白い娯楽にこだわった。だから古山のような作り手が必要だったのだろう。

しかし、だからといって戦争に反対していたわけではない。むしろ逆で、戦意高揚には上からの指導的なものよりも、下から大衆と一緒に盛り上がれる娯楽こそが必要だと考えていたのだ。


戦争後も丸山は「大衆」とは何かを考え続けた。

その回答のひとつが『NHKのど自慢』である。現在も続く素人参加番組のパイオニアである『のど自慢』は終戦の翌年1946年にラジオ番組として始まった。その立ち上げに大きく関与したのが丸山である。

企画発案は三枝成彰の父であり音楽部のプロデューサーの三枝健剛だが、戦中に行われていた「演芸番組出演者募集」というオーディションがその原型だといわれている。これを現代的に大衆化した番組として復活させたいと提案したのが丸山だった。三枝はそれに『のど自慢』というタイトルを付け具現化させたのだ。マイクを大衆に開放した、1億総タレント時代の始まりである。


丸山は出場者オーディションの審査員としてこの番組にかかわることになった。

ここで丸山は大きな発見をする。

それは「歌っている本人は大まじめだが、とんでもない素頓狂な調子っぱずれや、思わず吹き出すような歌い方をする素人の面白さ」だ。オーディションに合格した優秀な歌い手だけが出演するというのが一般的な考え方だが、丸山はこうした人たちの姿も放送しようと提案したのだ。

そこから「素人のど自慢テスト風景」が放送されるようになったのだ。極めて現代的発想だ。


「『のど自慢』に出たがる大衆を、歌の上手下手にかかわらずラジオに登揚させる。人間の勘違いや気取り、しょい込みなどがそのまま表現され、それを見る人はなんともいえない気恥ずかしさと滑稽さを感じる。そして鐘が鳴る。そこには放送局の下手な演出がない。つまり戦前の鐵雄が忌み嫌った「指導性」が存在していない。大衆が見たがるものを提供しているのは、大衆自身である。

ここに「大衆性」に依拠した鐵雄の番組論のひとつの帰結があった。のちの民放テレビで全盛を極めた暗虐性に基づく笑い、特に一般人を晒し者にする笑いは、敗戦直後からNHKの『のど自慢』によって意識的に導入されていたのである。鐵雄はそのことに十分自覚的であった」(※)

丸山鐵雄は「大衆」を考え抜いた結果、革新的かつ普遍的な娯楽番組を生み出すことができたのだ。


(参考)
※ 尾原宏之『娯楽番組を創った男』(白水社)

<了>

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