てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「大山勝美」篇

  • 公開日:
テレビ
#てれびのスキマ #テレビ #ドラマ
てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「大山勝美」篇

てれびのスキマの温故知新~テレビの偉人たちに学ぶ~ 第28回

「ドラマのTBS」

1955年に「ラジオ東京テレビ」あるいは「KRテレビ」の呼称で開局し、1960年に「TBS」へと社名が変更した頃には、そんな評価がされていた。

これは、1958年に橋本忍脚本、岡本愛彦演出の『私は貝になりたい』が文化庁芸術祭放送部門で大賞、翌1959年に同じく橋本忍脚本、岡本愛彦演出『いろはにほへと』でもテレビジョン部門で大賞を立て続けに受賞し、本格テレビドラマの系譜を生んだことに由来する。このドラマ部門の好調が局の柱となり、長らく民放トップの座に君臨していた。

そんな「ドラマのTBS」を支え続けたひとりが大山勝美である。


大山勝美は1957年に早稲田大学を卒業し、TBS(当時はラジオ東京)に入社した。それ以来、ドラマ畑一筋だ。

「酒は飲むし、時間には遅れるし、キューを出すのにスリッパを投げたり、とにかく小まめに働くADではなく、ダメADの代表格みたいなものだった」(※1)と自身のAD時代を振り返っている。

そんな大山の意識を変えたのは、同い年の石原慎太郎との出会いだった。

彼のかっこよさに惚れ込んだ大山は石原慎太郎と「日本にない新しい番組を作りたい」と「慎太郎ミステリー」シリーズの制作を開始した。SFやオカルト的な要素を盛り込んだミステリー。そのため通常の撮り方ではダメだと考え、ワンカットで撮ったり、クローズアップだけで撮る、あるいは逆に高いところから引きの画だけで撮るなど、あらゆる手法で独特の世界観を構築していった。

その結果、大山は"実験ドラマ派"などと呼ばれるようになり、NHKで辣腕を振るっていた和田勉の対抗馬と目されるようになっていった。


そして1962年、大山は同年代の梅本彪夫、実相寺昭雄、鴨下信一と共同演出した『若もの-努の場合-』で芸術祭テレビジョン部門の奨励賞を受賞。脚本には映画界から山田信夫を招聘。まだ全員20代。旅館に2か月以上閉じこもり、ディスカッションを繰り返した。

その頃から大山は、「テレビドラマの特徴は、日常をうまく描きながら劇を作っていくことじゃないか」と思い始めていた。自動車工場で働く若者(三上真一郎)の生き方を通して日本を逆照射しようと考え、「日常性を追求します」と上司に説明した。すると上司は激怒した。

「ドラマとは非日常を描くもの。君、分かってないな」(※2)

今や「日常」を「ドラマ」にすることは当たり前の手法だが、当時としては斬新なやり方だったのだ。また、VTRロケを主体とする手法も、当時のテレビ界に衝撃を与えたという(※1)。

翌63年には、「ドラマのTBS」の源流を作った橋本忍と組み『正塚の婆さん』で再び芸術祭奨励賞を受賞。この時、橋本からドラマの構成法や題材の選び方などを学んだことが、大山にとって大きな財産となった。


こうした実績が買われ、1966年、民放始まって以来、1000万円という莫大な制作費をかけた長編ドラマ『戦国太平記 真田幸村』のメインディレクターに抜擢された。

だがこれは「大失敗」に終わってしまう。プロデューサー側は「真田十勇士がブラウン管狭しと暴れまくる講談調の娯楽時代劇大作」を目指していたが、大山が志向していたのは違っていた。文学的でシリアス、暗さが全面に出たドラマとなり、局側の目標の視聴率に届かず、その後数年、事実上"干された"状態になってしまった。


そんな大山は1974年に山田太一と組んで『真夜中のあいさつ』を制作。芸術祭テレビドラマ部門大賞やギャラクシー賞選奨など数多くの賞を受賞し、再びTBSドラマの"本流"に"帰還"を果たした。

そして1977年、再び山田太一と組んだ『岸辺のアルバム』を制作。

後番組には高倉健主演ドラマの『あにき』が決まっていたため、『岸辺のアルバム』は視聴率が獲れなくてもいいと大山は考えた。だから山田太一には「視聴率は気にせず、いいものを書いてください」と依頼した。だが、視聴率の結果は逆だった。『岸辺のアルバム』は高視聴率を獲得したばかりではなく、ギャラクシー賞など数多くの賞を受賞した。

同じ年、TBSでテレビマンユニオン制作の3時間ドラマ『海が甦える』が放送されたのを見て「何で外部のプロダクションがつくれて本体のTBSがつくれないのか」(※3)と触発され、自ら手を挙げて制作したのが1978年放送の3時間ドラマ『風が燃えた』だ。以降、好評で高い視聴率となった『熱い嵐』(1979年)など"3時間ドラマ路線"を築いた。


1980年には、無料の俳優教育・養成塾である「緑山私塾」(のちの「TBS緑山塾」)を設立。初年度には2188人もの応募者を集め、74人が入塾した。

この塾のコンセプトは「若手即戦力の育成」「『いただき一辺倒』からの脱却」「オーディション制度の組織化」「テレビ的演技の確認」だった。ちょうどこの頃、ドラマ部門が落ち込み「ドラマのTBS」の称号が凋落しつつあった頃。長らく民放トップの座に立っていたTBSだったが、フジテレビのバラエティ番組の勢いに押され始めていた。

「長年の慣れからくるTBS的垢を徹底的に洗い落とし、清新な気分で"原点"に立ち返り、新しい時代のドラマ作りに励みたい」とその決意を語り、緑山私塾1期生から田中美佐子や矢島健一らを輩出したのだ。(※4)


その後、大山は制作やプロデューサーとして、山田太一と組んだ『想い出づくり。』(1981年)や『ふぞろいの林檎たち』(1983、1985、1991、1997年)、市川森一と組んだ『淋しいのはお前だけじゃない』(1982年)などを手掛け、TBSドラマの看板となる「金曜ドラマ」をブランド化させることに成功した。

「ドラマのTBS」の名はいまもテレビ界に脈々と受け継がれている。


(参考文献)

※1 志賀信夫:著『映像の先駆者125人の肖像』(NHK出版)

※2 TBSメディア総合研究所:著『新・調査情報passingtime』2005年9-10月号(TBSテレビ)

※3 ビデオリサーチ:編『「視聴率」50の物語』(小学館)

※4 伊東弘祐:著『ブラウン管の仕掛人たち』(日之出出版)

<了>

関連記事