てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「和田勉」篇

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てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「和田勉」篇

てれびのスキマの温故知新~テレビの偉人たちに学ぶ~ 第30回

「ガハハ」と豪快に笑いながらダジャレを繰り出すおじさん。

それが筆者を含め、ある世代以下の和田勉のイメージだろう。

『森田一義アワー 笑っていいとも!』(フジテレビ)のレギュラーも務めていたこともあり、一目見たら忘れられないそのインパクトある風貌が、強烈に記憶に残っている。

だが、元々は「芸術祭男」の異名をとるテレビ創世記を代表するテレビドラマディレクターだ。


1953年、早稲田大学第一文学部の演劇学科を卒業した和田勉は、テレビ放送を開始したばかりのNHKに入局する。まだ本放送が始まる前に書いた卒論は「テレビ考現学」。

当時はラジオ番組を作るために入ったのに、結果、流れ着いてテレビに、といった局員がほとんどだった中で、彼は「テレビを撮る」ために入局したのだろう。


彼のテレビドラマの演出に対する真摯さをあらわす資料がある。それは母校・早稲田大学で行われた演劇博物館主催の「テレビの見る夢―大テレビドラマ博覧会」(2017年5月13日~8月6日)の際、"発見"されたものだ。

「テレビドラマ さるのこしかけノオト」と題された制作ノートである。

『さるのこしかけ』は1955年に放送されたテレビドラマだ。放送時間はわずか30分であるにもかかわらず、ノートは656ページにわたり、「スタッフやキャストの記載に続き、ロケハンの様子、配役について、音楽の打ち合わせ、セットの準備、そしてシークエンスごとの立ち稽古の状況などが極めて詳細に記録」されている。

「当初はフィルムでのロケ撮影も予定していたが中止になったこと、全く同じ教室のセットを二つ準備して撮影に臨んだこと、さらにはどのように各部屋(教室や居間)を配置するのか、ドアをどこにつけるのか、そのドアを内開きにするのか、外開きにするのか(これはカメラの動きを決定するにあたって極めて重要な問題であったようだ)等々、番組制作の細部が入念に検討されている」(※1)という。


この前年の54年11月放送の『ウドン屋』で初めてドラマ演出を手掛けた和田は、57年の有吉佐和子・脚本の『石の庭』で第12回芸術祭奨励賞を受賞した。さらに59年に作家・安部公房と組んだ『円盤来たる』や『日本の日蝕』を撮った頃には「大阪に和田あり」と注目されるようになった(※2)。特に後者は、第14回芸術祭奨励賞と第一回放送作家協会賞を受賞した。

そんな和田勉の演出法の特徴は、なんといってもクローズアップの多用だ。中でも57年の『帰って来た人』では30分105カットのうち85カットがクローズアップだった。


1961年に大阪から東京に移った後も良質な単発ドラマを作り続け、数多くの賞を受賞していく。

そんな中で大きな転機が訪れる。それまで「テレビはストーリーではない」と連続ドラマの演出を拒否していた(※2)和田だったが、1968年に放送された大河ドラマ『竜馬がゆく』に急遽起用されたのだ。これにはやむにやまれぬ事情があった。

元々、『竜馬がゆく』の演出は辻元一郎が担当していた。だが、スピーディーな展開を求めた脚本家の水木洋子との間で対立(※3)。収拾がつかない状態に陥ってしまった。視聴率が低迷したこともあり、異例ともいえる放送中の演出交代となったのだ。そこで白羽の矢が立ったのが、和田勉だった。辻本が和田のアシスタントを長く務めていた関係性や、スピーディーな演出に定評があったための起用だった。

この交代後の放送回を見た伊東弘祐は「テレビの演出が、これほどまでにドラマの性格を根本的に変えてしまうものか。/テレビドラマの良し悪しは脚本にそのすべてがあると信じていた私のテレビドラマ観を根底から引っ繰り返した」(※4)とその衝撃を綴っている。

「テレビ独特のクローズアップの多用、速射砲のようなセリフ。これがとかくスローテンポの土佐弁に妙に調和し、画面に不思議な躍動感を与えたのである。坂本竜馬が生き返ったのだ」と。


まず和田はヒロイン・おりょう役を演じる浅丘ルリ子に着目した。美しい衣装やメイクを廃し、その素材としての素晴らしさを撮ることに尽力した。

それまでテレビは「断片であり、音(セリフ)であり、ニュースである」という考え方で和田は撮っていたが、彼女の魅力によって「テレビドラマは役者である」(※2)という考えに大きく変わっていったのだ。

「ディレクターとは、"板前"だと私は確信している。だから、いい材料がないと腕を振るうわけにはいかない。その材料とはテレビドラマの場合"役者"であり、"役者が存在しない限り、ドラマは作れない"とつねづね考えている。

役者、俳優が決まると、次はどんな料理にするかを決める。刺身にして生身の味を楽しんでもらうか、煮付けにして煮ものの味付けを吟味していただくか、焼き魚にしてその姿と形を賞味してもらうか、演出家はどう料理するかを考える。いい脚本がないことには始まらないという考え方には反対であり、極端な言い方をすれば、作家は要らないと言ってもいいし、脚本はどうでもいいと思っている」(※2)

そんなテレビ演出家としての強烈な矜持を持って、数多くの役者たちを名俳優に仕立てていったのだ。


(参考文献)
※1 「WASEDA ONLINE」 https://yab.yomiuri.co.jp/adv/wol/culture/170712.html
※2 志賀信夫:著『映像の先駆者125人の肖像』(NHK出版)
※3 荒俣宏:著『TV博物誌』(小学館)
※4 伊東弘祐:著『ブラウン管の仕掛人たち―テレビ最前線・現代プロデューサー事情』(日之出出版)


<了>

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