てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「高橋がなり」篇
てれびのスキマの温故知新~テレビの偉人たちに学ぶ~ 第43回
いまや飛ぶ鳥を落とす勢いの活躍を見せるお笑いコンビ、ニューヨークの屋敷裕政がお笑い芸人になる前に制作会社でADをやっていたというのはよく知られた話だ。AD時代、『ネプリーグ』(フジテレビ)や『ザ!鉄腕!DASH!!』(日本テレビ)などに携わっていたという。
今でこそかなり改善されたとはいえ、やはりADといえば、精神的にも肉体的にも過酷な仕事。屋敷も、「ゾウの入れるプール」を仕込むように指示され、関東近郊のホテルやプールに片っ端から電話してOKをもらうのがキツかったなどといったエピソードを語っている(※1)。
その屋敷が所属していた制作会社はIVSテレビ制作(以下「IVS」)。IVSは業界内でもとりわけ"武闘派"なイメージがあるところ。なにしろ、かつてテリー伊藤こと伊藤輝夫が辣腕を振るっていた会社なのだ。
そんなIVSでAD経験のある著名人の一人として真っ先に名前が挙がる人物といえば、高橋がなりこと高橋雅也だろう。
高橋は学生時代、勉強しなくてもオール4くらいの成績はとれるし、特別に努力しなくてもケンカは一番強かった。だから「自分は選ばれた人間だから、何の努力をしなくても勝ち組に入る」と思っていた(※2)。
しかし、2度の大学受験失敗を経て、それが「勘違い」であることに気づいた。そこで「誰よりも厳しいことをしてやろう」と決心し、まずは過酷だと聞いていた佐川急便にセールスドライバーとして就職した。
そして佐川急便を辞めた高橋は、1981年、たまたま就職情報誌でIVSの募集記事を見かけた。それまでテレビにそれほど興味はなかったが、応募してみたところ採用された。その時の面接官の一人がテリー伊藤である。入社以降、テリーと高橋は「師弟」のような関係となった。
高橋は、経歴について「『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』(日本テレビ)のAD」と紹介されることが多い。もちろんこの『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』にも参加しているため間違いではないが、「僕のテレビの仕事の9割」(※3)だと高橋が語っているのが、テレビ東京のかつての特番枠、『日曜ビッグスペシャル』で放送された『いじわる大挑戦』だ。
この番組でテレビ史的に伝説にもなっている企画といえば、なんといっても「たこ八郎に東大生の血を輸血するとIQ(知能指数)は上がるのか」だろう。タイトル通り、元プロボクサーでコメディアンのたこ八郎に東大生の血を輸血するという、今ではあり得ない、いや、当時だってあり得ない"人体実験"企画を行なったのだ。
もちろん企画・演出はテリー伊藤である。テリーは、信憑性がほしいから、本物の医者に出演してもらい、撮影も大学病院でやりたい、と言う。しかし、病気でもないのに輸血するなどご法度だ。高橋は、テリーの命を受け大学病院に問い合わせるも、もちろん断られてしまう。難易度は「ゾウの入れるプール」どころじゃない。
それでも粘った高橋はなんとか了承してもらえる精神科医を見つけることに成功したのだ。
もう1人、この番組で脚光を浴びた人物がいる。稲川淳二である。いまや日本を代表する怪談家として活躍しているが、テレビタレントとして最初に人気を博したのは、リアクション芸だった。散々な目に遭いながら、カメラの前で「喜んでいただけましたか?」と言って落とす流れは鉄板だった。
そんな稲川のリアクション芸のスタートこそ、この『いじわる大挑戦』だったのだ。稲川は様々な動物を使った企画に挑戦した。なかでも強烈だったのは、マムシが泳ぐプールの上に張られたロープを渡れ、というもの。プールにはなんと4000匹ものマムシが泳いでいる。案の定、プールに落ちて「助けてー!!」と絶叫する稲川。
そんな稲川が挑戦した企画にもすべて高橋が絡んでいた。もちろん、このマムシプールもそうだ。稲川はヘビが大の苦手。だから、直接肌が触れ合うのは無理だと最初は断られた。
しかし、そこで折れたら終わりだ。高橋は「特別に安全なヘビを用意しますから」と口からでまかせを言いながら、出演してもらうための絶対条件である事前の"人体実験"の役を買って出た。だが、ヘビが大嫌いなのは高橋も同じだった。
ディレクターに「早く飛び込め!」と怒鳴られるなか、覚悟を決めて飛び込むと、思わず大量のヘビを掴んでしまい、プールから飛び出した。それでも近くで見ていた稲川に高橋は言った。「ということで、まったく安全ですから」(※3)
もちろん、そんな番組だから放送後はクレームの電話が鳴り止まなかった。それを取るのも高橋らADの仕事だ。だが、高橋はクレームが多いほど多くの人が見てくれた証拠だと喜んだ。
高橋は、テリーは「家庭教師をしてくれた」と回想している。夜中の2時にわざわざ編集所へ来て、高橋が作ったVTRを見て何がダメかを教えてくれた。時には"鉄拳制裁"されることもあった。そして早朝からロケをやり直す。そんな日々が毎週のように続いたという。
「これを『してくれた』と思うまで2年かかりました。ありがとうと思えるように成長したことに2年目に気づきました。同期の連中と格が違うくらいに自分のほうが優秀だったから」(※2)
そんな高橋は、テリーの考えた奇想天外な企画で実現できなかったものはあるか、という問いに、自分が関わったものでは「ない」と断言して胸を張る。「どんな企画でも実現してみせるというのが僕のプライドでしたから」(※3)と。
(参考文献)
(※1)YouTube「ニューヨーク Official Channel」【事件】ニューヨーク屋敷がテレビ制作会社のAD時代に体験したやばい出来事ベスト3(2022年2月15日)
(※2)オルタナS「高橋がなり流人生訓「挫折しないと成功できない」」(2011年8月15日)
(※3)『80年代テレビバラエティ黄金伝説』(洋泉社MOOK)
<了>