てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「牛山純一」篇

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てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「牛山純一」篇

てれびのスキマの温故知新~テレビの偉人たちに学ぶ~ 第45回



「テレビ東京の『ドキュメンタリー 人間劇場』のスタッフのなかに、「演出」という方がいらっしゃいます。ドキュメンタリーとは記録そのものだと思うのですが、どんな仕事をされるのでしょうか」

1995年の朝日新聞の「はてなTV」というコーナーに、視聴者からそんな投稿が寄せられている。ドキュメンタリーは「客観的記録」で「公正中立」。そんな"幻想"は今も昔もはびこっている。その"幻想"と終生戦ってきたのが、『ドキュメンタリー 人間劇場』でも「演出」作品を発表していた牛山純一だ。

牛山こそ、日本のテレビドキュメンタリーの可能性を切り拓いていった人物のひとりだ。その名を知らしめたのはなんといっても、『ノンフィクション劇場』(日本テレビ)にて1965年5月9日に放送された『南ベトナム海兵大隊戦記』だろう。

この年の2月、ベトナム戦争においてアメリカが北爆を開始。3月には地上軍をダナンに上陸させた。ベトナムがもっとも激戦にさらされた時期だ。牛山が率いる取材班は約50日間、南ベトナム政府軍に密着し、ゲリラ掃討作戦を追った。

膨大な映像を3部作にして放送するはずだった。しかし、事態はそう進まなかった。スパイ容疑で捕らえられた少年たちに対する南ベトナム政府軍兵のシーンが「残酷だ」とクレームが来たのだ。

クレームを入れたのは時の政府。日米安保体制を推進する政府にとって、反米感情が高まるのはなんとしても避けなければならない。そのため「残酷」という表現で難色を示したのだ。

さらにアメリカ・南ベトナム両大使館からも「事実に反する」という抗議を受け、日本テレビ上層部は「局の自主判断」で第2部・第3部の放送中止を決定。

牛山は「テレビ報道の誇りを自ら放棄するものでしかない」(※1)と嘆いた。


牛山純一は1953年に「1期生」として日本テレビに入社する。翌年の『特集 第十九国会』で初めてテレビドキュメンタリーを制作した。この頃から牛山は「中継の牛山」と呼ばれるほど、中継には自信を持っていた。

そして日本にテレビが普及するきっかけのひとつとなった1959年の「皇太子ご成婚パレード」の中継を牛山は担当する。他局がヘリコプターなどを使ってパレードの全景を撮ろうとしている中、牛山は視聴者が一番見たいのは「花嫁の顔」だと考え直した。

ビルの屋上にあったカメラを地上におろし、13台の中継車を配し、カメラを低位置に設置。重要地点ではレールを敷いて追いかけ、皇太子妃をクローズアップでとらえた。また、パレードには、撮影地点に来るまで空白の時間が生まれる。

他局はその空白を既存の映像で補ったが、牛山は空白を空白のまま映した(※2)。「テレビは『何かが起こっている』から見るのでなく、『何かが起こりそう』だから見るもの」(※3)と萩本欽一は言っているが、牛山もそれを看破していたに違いない。この中継で牛山は正力会長賞を獲得し、局内で大きな存在感を得ることになった。

テレビで国会中継を初めて実現させたのも牛山だ。NHKと組み「世界中の先進国はみんな国会を中継しているのだから、やらせろ」と迫り、本会議から予算委員会に至るまでテレビカメラが入ることになったのだ。

しかし、当時の先進国で国会中継を許している国はどこにもなく、牛山の方便だった(※4)。


そして1962年、牛山の代名詞のひとつである『ノンフィクション劇場』が誕生する。日本の民放テレビ初のドキュメンタリー番組だ。

「一人の人間に密着し、作り手の視点を盛り込む」ことを重視した。この方針を実現するため、映画界の人材も積極的に起用していった。記録映画から西尾善介、劇映画からは新藤兼人や羽仁進らが参加。

プロデューサーとして辣腕を振るった牛山は「人間くさい作品をつくろう」を合言葉に、悪の中にある善、善の中にある悪を表現しよう、 神になりたい自分、悪魔になりたい自分を出そうと、スタッフに檄を飛ばしたという(※4)。

すると、第2回に放送したドキュメンタリー映画界のベテラン西尾善介が撮った『老人と鷹』がカンヌ映画祭のテレビ映画部門でグランプリを受賞するいきなりの快挙。

さらに翌年、同じく西尾監督の『軍鶏師』がベルリン映画祭テレビ部門最優秀芸術作品賞を受賞。『ノンフィクション劇場』は世界でも有数のドキュメンタリー番組となった。

そしてその最大の成果といえるのが、1963年8月16日に放送された大島渚監督の『忘れられた皇軍』だ。

「松竹ヌーヴェルヴァーグ」の旗手として脚光を浴びていた大島渚は、この頃、その松竹を辞め、独立プロ「創造社」を設立していた。なぜなら、1960年に制作した『日本の夜と霧』が政治的圧力もあり、大島に無断で上映を打ち切られたからだ。

そんな彼にとって牛山から声をかけられたのは渡りに船だったに違いない。二つ返事で引き受け制作した『忘れられた皇軍』は大きな反響を巻き起こし、記念すべき第1回「ギャラクシー賞」に輝いた。


牛山は社会部長や制作局次長などを歴任したが「はんこを押す仕事より、現場で自由に記録番組をつくりたい」と部下7人を連れて独立し、制作会社「日本映像記録センター」を設立。「この木、何の木、気になる木~♪」のCMで印象深い『日立ドキュメンタリー すばらしい世界旅行』(日本テレビ)を立ち上げる。

単なる観光案内や珍しい風俗の紹介とは一線を画し、主に欧米以外の地域を取り上げ、伝統的な暮らしや宗教、儀式などを丹念に追った。

24年もの長期間にわたり続いたこの番組では、ディレクターたちに各地域を分担させ、1年の半分は現地で生活するという現場主義を徹底させた。

牛山には3つの動かぬ信条があったという。「取材対象に愛情を持て」「長期取材をいとうな」「カメラもまた権力だということを忘れるな」(※2)。そこで大事になってくるのが徹頭徹尾「現場」なのだ。

「報道は客観的な事実を伝えるのではなく、事実を客観化することだ。観察者によって事実は百八十度転回する。映像は現実に直面し、対象を知覚したときの意味の世界であって、記録する者の現実の解釈なのだ。そしてそこには人間がかならず介在する」

『A』『A2』『フェイク』などで知られるドキュメンタリー監督・森達也は、そんな牛山が残した言葉を引きながら「しみじみと嘆息する。あらためて凄い男だ。そして同時に、この男を許容した当時のテレビ状況に羨望する」(※5)と語る。

遺作となったのは1997年9月28日に放送された『推理ドキュメント アンコール遺跡盗難事件』(NHK)。演出助手を担当した杉山忠夫はこう証言している。

「最後の編集に至るまで病院のベッドから注文を出してました。牛山さんは完全主義者であり、気に入るまで仕事を止めませんでした。作る過程も大切にしており、経過が作品の質を決めるのだといつも語っていました」(※4)

牛山純一は、この作品のオンエアを見届けて8日後に終生ドキュメンタリストとしてその生涯を閉じた。


(参考文献)

(※1)『朝日ジャーナル』1972年11月20日臨時増刊号(朝日新聞社)

(※2)「毎日新聞」2016年8月14日

(※3)『テレビのチカラ』(NHK)2013年2月1日放送

(※4)志賀信夫・著『映像の先駆者125人の肖像』(日本放送出版協会)

(※5)森達也・著『それでもドキュメンタリーは嘘をつく』(角川文庫)


<了>

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