てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「栗原甚」篇

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てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「栗原甚」篇

てれびのスキマの温故知新~テレビの偉人たちに学ぶ~ 第55回



映画監督のスティーブン・スピルバーグに有名な逸話がある。映画館を訪れた監督の隣席に若者が座り、新作の構想を熱く語った。それを面白いと思ったスピルバーグは、その制作費をポンと出したという。

そんなエピソードから着想を得た番組が2001年から2004年まで放送された『¥マネーの虎』(日本テレビ)だ。

舞台はだだっ広い殺風景な部屋。会議机を挟んで「虎」と呼ばれる5人ほどの社長と挑戦者の若者、ナビゲーター役の吉田栄作が向かい合う。

机の上には「虎」たちが用意した札束が積み上げられている。挑戦者は欲しい金額と、その金で成し遂げたい夢や野望をプレゼン。それを「虎」たちはじっくり聞いたうえで投資額を決定する。

5人の投資額が1円でも希望額に足りなければ投資が不成立になり「ノーマネーでフィニッシュ」する厳しいルールだ。

BGMもナレーションもない生々しい演出と、人生がかかっているため熱を帯びた真剣なトーク、そして個性的な「虎」たちのキャラクターが受け、当初、深夜番組でスタートしたこの番組は、瞬く間にゴールデンタイムに昇格した。

企画・演出を務めたのは、番組立ち上げ当時、入社9年目の30代前半だった栗原甚。

彼は商社を目指していたが、就職活動に失敗。テレビがない家に育ち、ほとんどテレビを見ていなかったが、「いろんな人と出逢う仕事がいい」(※1)と考えテレビ局に入社した。

大学時代、政治のゼミに入っていたこともあり、報道記者志望だったが、配属は社会情報局。『ズームイン!!朝!』(日本テレビ)などで経験を積み、バラエティ班に異動した。

当時、日本テレビは全盛期。数多くの人気番組が鉄壁のタイムテーブルを確立していた。それは局としては良いことだが、若手社員としては複雑だ。

なにしろほとんど終わる番組がないから、新しく始まる番組もない。

つまりは、チャンスがないのだ。栗原も何度となくプロデューサーに企画書を持って行くが、取り合ってもらえなかった。

そんな中で大きな転機が訪れる。編成部長に『電波少年』シリーズの土屋敏男が就任したのだ。

土屋は就任するとまもなく「深夜枠」を立ち上げることを宣言し、約10年ぶりとなる大々的な企画募集を行った。

しかし、そこには「3ヶ月以内に視聴率7%をクリアしなければ、半年で打ち切り」という『電波少年』イズムあふれる条件がつけられていた。当時は現在よりも全体的に視聴率が高かったとはいえ、深夜で7%はあまりにも厳しい数字だ。

それでもチャンスに飢えていた若手社員から500本以上の企画が寄せられ、その中から選ばれたのが、栗原が出した『¥マネーの虎』だったのだ。

栗原はまず他局の同じ枠を徹底的に研究し、同種のアイデアを排除した。

「予算に制限があるからトーク番組をやろうと考えました。ただ、深夜だから静かで落ち着いた番組にするんじゃなくて、逆に見たら興奮して朝まで寝られないくらいの熱い番組にしたかった」(※2)

そこで思いついたのが「投資」だったのだ。

「投資」をテレビでやるなど、当時は考えられなかった。どんな番組になるかも見えない。けれど、その見えなさに面白みを感じて土屋は企画を通したのだ。おそらく、編成部長が土屋でなかったら『¥マネーの虎』は生まれなかっただろう。

企画は通ったものの、始まるまでが困難の連続だった。まず、企画が通った段階で番組MCは自分の中で決まっていた。

吉田栄作である。

社内からは、多くの人気番組を抱えていた島田紳助の名もあがっていた。なるほど、投資と島田紳助の相性は抜群だ。栗原もそれはわかっていたし、紳助の能力は自分がかかわっている番組でも目の当たりにしていた。

しかし、この番組に関してはそれではダメだと思った。なぜなら島田紳助がやれば、いい意味でも悪い意味でも「テレビSHOW」になってしまうからだ。栗原がつくりたいものはそれではなかった。

「筋書きのない、ヒリヒリするような討論、視聴者が『このあと、どうなってしまうのだろう?』とドキドキするような生々しい番組」(※3)

そんな「今までにないリアルなトーク番組」を目指していたのだ。そのために吉田栄作が必要だった。

だが、吉田栄作の答えは「NO」だった。

「バラエティー番組の司会などやったことがないので、お断りします」

けれど、栗原は諦めなかった。もう一度オファーをしても答えは同じ。それでも粘り、本人と直接交渉するところまでこぎつけた。栗原には、直接話せば引き受けてくれるという確信があった。

なぜなら、事前に徹底的に調べ、吉田はそういう男だとわかっていたからだ。

たとえばこんなエピソードを入手していた。

吉田に連続ドラマの主演と単発ドラマの脇役のオファーが同時期に舞い込んだという。普通なら前者を選ぶ。だが、彼は脚本の質の高い単発ドラマのほうを選んだ。

金よりも意義を重視していたのだ。ならば新しい挑戦となるこのオファーも受けてくれるはずだと。

しかし、直接話しても吉田は難色を示した。そんな吉田を栗原は熱く説得した。

「この企画は、アメリカンドリームのようなジャパニーズドリームを叶える番組です。あなたは19歳で芸能界に入り、一気に芸能界の頂点にのぼり詰めた。そして今度は『ハリウッドで成功したい!』という野望を抱いて、日本の芸能界を一時引退した。単身でアメリカに渡り、ハリウッドで、映画のオーディションを受けまくった。ロサンゼルスで皿洗いのアルバイトをしながら、挑戦し続けた......」

「3年後......、日本に戻ってきた。あなたは、番組に出場する志願者の気持ちが理解できるはずだ。それは、自分自身が挑戦した経験があるからです。番組に出場する志願者は、自分の夢や野望を叶えたい人たちです。そんな挑戦者の気持ちが理解できる人、自分も挑戦したことのある人に、この番組の立会人をやってほしいんです。日本の芸能界で、この立会人ができる人は、唯一、あなたしかいない!」(※3)

そうして遂に、吉田栄作は番組出演を承諾したのだ。

だが、まだまだ困難は待ち受けていた。

投資をしてくれる「虎」がなかなか集まらなかったのだ。

なんだかよくわからない番組に、突然、身銭を切って投資してくれと言われたってすぐに肯けるものではない。しかも、旅費や交通費はおろか、番組出演料もなしという条件だった。

「社長をくどきに日本全国に出かけたんですが、ことごとく断られました。全然相手にされなくて。それでもめげずに、最初は大会社の社長から当たっていったんですよ。でも、なかなか社長まで話が行かなかったり、 広報で止められたり(笑)。

まぁ、新番組だから、どんな風になるか見当がつかないだろうし、予算がないから、"出演料も交通費も宿泊費も出ません"って、最初に言ってたんで。

いま思うと、本当にムシのいい話ですよね。失敗するかもしれないアカの他人に、いきなり"身銭を切って投資してくれ"ってことをお願いするわけですから。もちろんある程度断られることは、覚悟してましたけど、ほとんどの社長が"そんなこと頼みにくるなんて、あなた、頭おかしいんじゃない?"っていう反応でしたね。

とにかく予想してた以上にダメで、実は、諦めて次点の企画に枠を明け渡そうかって考えるところまで行ってたんです」(※1)

それでも諦めず、約1ヶ月半、毎日のように交渉をしていき、300人近くの社長と会った。

その結果、アダルトビデオメーカー「ソフト・オン・デマンド」を立ち上げた高橋がなり、ラーメン店「なんでんかんでん」の社長・川原ひろし、美空ひばりの長男にして音楽プロデューサーの加藤和也、リサイクルショップ「生活創庫」の創業者・堀之内九一郎、創作料理店を営む実業家・小林敬ら、個性豊かな「虎」たちが「面白いことを考えるね」と集まった。

「引き受けてくれた社長たちは皆、自分もドン底を味わっていたり、誰かに投資されて這い上がった経験のあるツワモノばかり。だから"今度は、自分が投資する番だ"と太っ腹なんです」(※1)

そう、吉田栄作と同じように「挑戦者の気持ちが理解できる人」だった。きっと吉田も「虎」たちも『¥マネーの虎』という番組自体にも投資したのだろう。

「虎」たちは、ノーギャラだからこそ、番組の成立など気にせず、投資の可否の判断にだけ真剣に取り組み、本気の言葉を吐いた。「ノーマネーでフィニッシュ」になってしまった志願者からも成功者が生まれたのは、そういった部分にあるに違いない。

『¥マネーの虎』のフォーマットは海外にも販売され、2024年3月時点で50の国・地域で制作・放送されている。

なかでもアメリカ版『¥マネーの虎』の『Shark Tank』は、2014年から4年連続でテレビ番組最大の栄誉である「エミー賞」を受賞している。

日本発の番組が「エミー賞」を獲るのは初めてで、もちろん4年連続は史上初の快挙。アメリカの映画監督のエピソードに着想を得て作った番組が逆輸入されて賞を獲るのは痛快だ。

そこに至るまでには、栗原自身が『¥マネーの虎』の挑戦者のように人生をかけて、幾多の困難を前に番組成立までこぎつけた執念があったのだ。

(参考文献)

(※1)伊藤愛子:著『視聴率の戦士 テレビクリエイター列伝』(ぴあ)

(※2)「PRESIDENT Online」(2019/10/24)

(※3)栗原甚:著『すごい準備 誰でもできるけど、誰もやっていない成功のコツ!』(アスコム)

<了>

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