てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「都築忠彦」篇

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てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「都築忠彦」篇

てれびのスキマの温故知新~テレビの偉人たちに学ぶ~ 第56回



「25年前にテレビが街頭テレビから始まったことを考えると、今昔の感にたえない。みなさんの支持のある限り、この運動を続けていく!」

代々木公園に集まった数千人の熱狂に包まれ、日本テレビの当時の社長・小林與三次が興奮気味に思わずそう宣言した。

それは1978年、開局25周年記念企画として1回限りと制作された『24時間テレビ「愛は地球を救う」』の生放送中のことだ。この宣言通り、『24時間テレビ』は一度きりで終わるどころか、現在に至るまで、日本テレビの代名詞的番組として続けられている。

その企画・発案者こそ、都築忠彦である。

都築は1935年生まれ。幼少期から演劇に親しみ、大学では、アングラ劇団「劇団駒場」に所属した。

また、当時は学生運動真っ盛り。学生に死者が出た1960年6月15日の安保闘争のデモにも参加はしたが、学生自治会の委員だったため義理で参加しているだけで、乗り気ではなかった。

"思想"的なことは嫌いで、同級生から「都築の血は青い」と言われるほどだった(※1)。

そんな都築が社会問題に真剣に向き合い始めたのは、日本テレビに入社してからだった。

1966年、都築は始まったばかりの『11PM』の制作班に配属された。その前年の11月に始まった『11PM』は、それまで不毛地帯だった"深夜"を開拓した番組だった。

いまでこそ、23時台といえば、バラエティ番組的には"ゴールデンタイム"といっても過言ではない時間帯。しかし、当時はニュース番組程度でほとんど注目番組がなかった。

そこに目をつけたのが井原高忠。

夜11時は、翌朝の新聞の早刷りができるころ。もちろん夕刊もある。男性をターゲットにしたニュースショーにすれば、この深夜枠を開拓できるのではないか、という発想だった。

バラエティ系の番組を制作する芸能局とともに報道局も参加していることからもわかるとおり、当初はかなり硬派なカラーが強い番組だった。

しかし、都築が入ったころには、番組ホストを大橋巨泉と小島正雄に代え、よりバラエティ色の強いものにリニューアルが図られ、お色気系の企画も増えていった。

『24時間テレビ』が、ギャラクシー賞も受賞したこの番組の「巨泉の考えるシリーズ・世界の福祉特集」がもとになっていることは有名な話だ。

ただし、正確には1971年度(対象期間は71年4月~72年3月)にギャラクシー賞を受賞したのは、「『11PM』月曜日の企画制作スタッフと大橋巨泉」。つまり福祉特集自体が受賞したわけではない。

都築が担当したこの年の「巨泉の考えるシリーズ」は以下の通りだ(※2)。

・初夢ポルノ解禁

・ポルノ映画はこうして生まれる

・沖縄で君は何を見たか

・興奮全体主義を考える (マスコミ操作)

・見たな! 関西ストリップの妙技

・棄てられた島・沖縄の証言

・おいら・イチ・ヌケタ (ニューフォーク紹介)

・新作公開華麗なヌード

・花のホステスが夜のプールで大運動会

・戦後日本の大空白・朝鮮問題

・カラー・ヌード版入浴美容大百科

・今夜はマジメ!大人の性教育

・総選挙の焦点四次防で命は守れるか

・今年話題の美女と10大ニュース

まさに番組スローガンである「政治からストリップまで」を体現した硬軟入り混じったラインナップだ。

『11PM』を見たことがない世代からすると、お色気番組のイメージが強い『11PM』がなぜ「世界の福祉特集」なんて硬い企画をおこなって、それが『24時間テレビ』につながったのか、と首をひねってしまいかねないが、こうしてみると自然なことだったとわかるだろう。

そして都築は1978年の前年、日本テレビ開局25周年の記念番組を社内で募集していたため、「世界の福祉特集」での取材をもとにした企画を出したところ、社内コンペで見事通ったのだ。

この企画の最終的な承認を得るため、社長の小林與三次にプレゼンすると「おもしろいことを考えるなあ」と満足気に頷いたが、こう続けたという。

「この企画は一回やったら日テレが潰れるまで何十年も何百年もやめられない。本来、チャリティーとはそういうもんだ。もし途中でやめたら世間から『なぜ、日テレはやめたんだ』と猛攻撃にあうのは間違いない。募金もおそらくかなり集まるからな。日テレが途中でやめれば社会的責任を途中で放棄したとみなされる」(※3)

つまり冒頭に引いた彼の発言は、既に始まる前から心のうちにあったのだ。

「寝たきり老人にお風呂を!身障者にリフト付きバスと車椅子を!」

そんな直接的なスローガンを掲げて始まった第1回『24時間テレビ』は、萩本欽一・大竹しのぶらを総合司会に据え、目標額の約3倍にあたる11億9000万円もの募金が集まった。

現在ほどバラエティ色は強くないが、地球規模で人類が直面する様々な社会問題をテーマにした企画はもちろん、手塚治虫の長編アニメ、ギャグやロックコンサートなど多種多様な企画が放送された。それはまさに『11PM』の「政治からストリップまで」と同種のイズムだ。

象徴的なのは、番組のCMにタモリを起用したことだ。この頃のタモリはまだアクの強いカルト芸人。

彼は得意の竹村健一のモノマネをしながら、「今、オイルショックやらなんやらでいろいろ大変なのに、この国だけだよ、チャリティーチャリティーと言うてるのは」と言ったり、別の年には「地球上に何百人という飢えた人たちがいるのです。この人たちに君たちはなにかをしてあげようという気持ちはないのか」と言った後に「私にはありません」と落とした。

「要するに全部、チャリティーという権威をコケにするコマーシャルなんですよ。タモリさんって権威主義に対してものすごい嫌悪感を持っていて、初期の芸風なんて、全部そんなものだったでしょう。(略)僕は『24時間テレビ』でチャリティーイコール権威というような図式を徹底的に破壊したかったんだけれども、その思いをタモリさんも共通して持ってたんです」(※1)

ちなみにタモリは番組本編でも、たとえば1981年の「タモリの素晴らしき今夜は最低の仲間達」と題した深夜企画に出演。

日本青年館から生中継されたのは、タモリと赤塚不二夫がロウソクを垂らし合うSMショーや、背の低いタモリと赤塚が猫背になり、お尻に座布団を入れ小さいレスラーに扮し、180cm以上あった景山民夫がレフリーをするミゼット(小人)プロレスのパロディなど。当然ながら苦情が殺到したが、都築は意に介さなかった。

「本音と建前を分けず、同一の次元で見つめるのを基本姿勢にした。テレビは低俗で文化ではない、といった風潮をいつか逆転してやろうと燃えてましたからね。そういう意味で、『24時間テレビ』は、あの(『11PM』の)拡大版なんです」(※4)

そう、『24時間テレビ』は、単に「世界の福祉特集」の拡大版ではない。正しく『11PM』イズムを受け継いだ、『11PM』の拡大版だったのだ。

(参考文献)

(※1)文春オンライン「『24時間テレビ』生みの親・都築忠彦氏インタビュー」(2019/11/24)

(※2)放送批評懇談会『放送批評懇談会 ギャラクシー賞60年史』

(※3)吉川圭三「メディア都市伝説」(水道橋博士のメルマ旬報)

(※4)「読売新聞」夕刊(1993年8月16日)

<了>

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