てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「岡田晋吉」篇

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てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「岡田晋吉」篇

てれびのスキマの温故知新~テレビの偉人たちに学ぶ~ 第57回



刑事ドラマといえば、テレビ創成期から現在に至るまで継続的につくられている不動の人気を誇るジャンルだ。その中で、最高峰の一作と言っても過言ではないのが『太陽にほえろ!』(日本テレビ)だろう。

1972年から1986年まで14年以上にわたり実に718回も放送された。

ドラマ自体を見たことがない人でも、銃弾を受け「なんじゃこりゃ」と鮮血のついた手を見て命を落とす、松田優作演じる「ジーパン」の殉職シーンを知らぬ人は少ないだろう。

この作品のフォーマットはその後の刑事ドラマに継承され、パロディやオマージュもいまだに繰り返されている。まさに刑事ドラマの金字塔だ。

しかし、プロデューサーの岡田晋吉は、このドラマを「刑事ドラマ」としてつくってはいなかった。

「私たちは一貫して青春ドラマを狙った。ある社会に飛び込んだフレッシュマンの成長物語で、たまたまその職業が刑事だったんです」(※1)

そもそも岡田晋吉は、「青春ドラマ」の名手だった。

1957年に日本テレビに入社した岡田は、当初は外国のテレビ映画の吹き替え業務に携わっていた。1961年には映画紹介番組などを制作するも、ストレスが溜まっていたという。

なぜなら、紹介番組は映画会社と協力体制でつくるため、当然、映画をけなすことはできない。自分の思うようにできなかったからだ。

ならば、いっそ自分でつくるしかない。こうして国産テレビ映画を制作するようになった。

最初に手掛けた『宇宙Gメン』(1963年)は振るわなかったものの、1965年に制作した石原慎太郎・原作の『青春とはなんだ』がヒットすると、その後、『これが青春だ』(1966年)、『でっかい青春』(1967年)、『進め!青春』(1968年)、『おれは男だ!』(1971年)といった、いわゆる「青春シリーズ」を立て続けにつくっていった。

さらに、『太陽にほえろ!』放送中にも、もうひとつの「青春シリーズ」ともいえる、鎌田敏夫・脚本の『俺たちの旅』(1975年)、『俺たちの朝』(1976年)など「俺たちシリーズ」を企画した。

だから、岡田が「青春ドラマ」として『太陽にほえろ!』を生み出したことは自然なことだった。

それまでの刑事ドラマは、事件や犯罪自体をテーマにしていたため、当然、暗く深刻なものばかりだった。そこで岡田は、「信頼・希望・愛をテーマに、刑事という<人間>のドラマをつくろう」(※2)と考え、『太陽にほえろ!』を「青春もの+アクション」の群像ドラマと位置づけた。

細かな捜査手順や推理などは度外視して、人間味豊かな刑事たちが全力疾走しながらチームワークで事件を解決する姿を描いたのだ。もちろん全力疾走シーンを多用するのは「青春ドラマ」の手法から採ったものだ。

だが当初は、このコンセプトが脚本家陣とぶつかった。脚本家チームのリーダーは小川英。

綿密な推理と正統派アクションを得意としていたことから、「犯人の動機や心情を書いてこそ、ドラマが生まれる」という哲学を持っていた。対して、岡田は「犯人はどうでもいい。刑事たちが何を感じたかを描いて下さい」と注文したのだ(※1)。

描きたいものはあくまでも刑事たちの青春。視聴者に刑事たちに対する愛着をもってもらわないと長続きしない。

だから、石原裕次郎は「ボス」、萩原健一を「マカロニ」、露口茂を「山さん」、竜雷太を「ゴリさん」、小野寺昭を「殿下」......と、あだ名で呼び合うという設定にした。これも「青春ドラマ」をつくってきたノウハウから着想を得たものだった。

主演は「ボス」こと藤堂俊介を演じた石原裕次郎。映画スターだった彼が連続ドラマの主演を務めたのはこの作品が最初で最後だった。

この大物が中心にいることで、「新米刑事の成長を描く」というコンセプトが成立した。

その「新米刑事」役に抜擢されたのが、「GSブーム」のさなか、ザ・テンプターズのヴォーカリストとして若者から絶大な支持を得ていた「ショーケン」こと萩原健一だった。彼は型破りな新米刑事「マカロニ」こと早見淳を演じると、役者としても大ブレイクを果たしたのだ。

ショーケンの人気とともに『太陽にほえろ!』も高視聴率を叩き出し、日本テレビの看板ドラマになっていった。

しかし、放送1年目のある日、萩原健一は「もう新人刑事としてやることがなくなった」と降板を申し出たのだ。これには、岡田も頭を抱えた。

主役級が途中でいなくなるドラマなど、当時もいまも考えられない。ショーケンの降板とともにドラマも終了するしかない、とスタッフの多くが思った。 だが、岡田は諦めなかった。

せめて、何かインパクトを残して去ってほしい。萩原と相談を重ね、ドラマ中に「殉職」を描くという賭けに出たのだ。

果たして、それは大評判となり、むしろ視聴率が上昇するという結果を生んだ。

そして、ショーケンの代わりに「新米刑事」役に起用されたのが松田優作だった。

彼は「ジーパン」こと柴田純を演じた。実は松田優作は、岡田が次の青春シリーズで起用を考えていた人物だったのだ。目論見通り松田は大ブレイクを果たし、1年後、ジーパンもまた「殉職」する。

こうして、無名の新人を起用し、人気が出たら「殉職」し巣立っていくという、マンネリを回避するフォーマットが生まれたのだ。

あくまでも「青春ドラマ」にこだわり抜いたからこそ、まったく新しい「刑事ドラマ」を生むことができたに違いない。

後年、岡田はこう訴え続けたという。

「テレビドラマは青少年の健全な発育を助ける要素がある。そんなテレビドラマを作ってほしい」(※3)

(参考文献)

(※1)「読売新聞」(1992年10月19日)

(※2)日本テレビ50年史編集室・著『テレビ夢50年』(日本テレビ放送網株式会社)

(※3)志賀信夫・著『映像の先駆者125人の肖像』(NHK出版)

<了>

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