てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「浅田孝彦」篇
てれびのスキマの温故知新~テレビの偉人たちに学ぶ~ 第60回
現在、羽鳥慎一が司会を務める『モーニングショー』(テレビ朝日)はテレビ史の中でも極めて重要な番組だ。
1965年から始まった『11PM』(日本テレビ)が、それまでのテレビでは「不毛の時間帯」といわれていた「深夜」を開拓したが、その前年に始まった『モーニングショー』が、やはり「不毛の時間帯」だった「朝」を開拓したのだ。
当時の午前中のテレビといえば、NHKの独壇場。朝ドラから始まり生活情報番組が続き、視聴者はとりあえずNHKを流しておくものだった。他の民放各局は古い映画を流す程度で、スポンサーもほとんどついていなかったという。
そんな状況を劇的に変えたのが『モーニングショー』だったのだ。
実はこの番組、そもそもの始まりは、スポンサーからの"持ち込み企画"だった。外資系製薬会社ヴィックス社が、この不毛の時間帯に目をつけ「月曜から金曜の毎朝1時間、婦人向けの帯番組」を各局に提案したのだ。
だが、ほとんどの局がそんなことは実現不可能だと拒否した。唯一、手をあげたのが、後発のテレビ局として苦しんでいた日本教育テレビ(NETテレビ)、現在のテレビ朝日だった。
日本教育テレビはその名が示すように、民放唯一の教育番組を中心に放送するテレビ局として放送事業に関する免許を取得していた。
そのため「教育が53%以上、教養が30%以上、報道、広告などその他を若干放送する」という取り決めがあり、それが"足かせ"ともなっていた。「教育番組」や「教養番組」の解釈を拡大しながら模索していたさなかだったのだ。
当時、教養番組の企画部課長だった浅田孝彦は、雑誌の世界からテレビ界に転身して6年目。思案した彼はこんな企画書を書いた。
「この番組は楽しいムードの番組です。
一、ナマ放送という特色を生かして、できるだけ新鮮な素材を盛り込むこと。
二、主婦に興味と関心のある素材なら、何がとび込んでもかまわない。しかし、一つのテーマの放送時間は三分から、長くても十分まで。
三、おしゃべりの間にさわやかな音楽をはさみ、できればおしゃべりのバックにも軽い音楽を入れて、朝のさわやかなムードを盛り上げる」(※1)
この企画書を読んだスポンサーの社長は渋い顔をして考え込んでいた。そこで浅田は口を挟んだ。
「あなたは『TODAY』の日本語版をおやりになりたいんじゃありませんか?」
『TODAY』はアメリカで1952年から早朝に放送されているニュース・情報番組だ。社長は我が意を得たりといった表情で身を乗り出した。しかし、浅田は釘を刺すように言った。
「あれをそっくり日本でやってもだめです。日本には日本のワイドショーがあるはずです。私が考えているのは、日本語ではうまく言えませんが、英語で題名をつけるとしたら『グッド・モーニングショー』か『アットホームショー』とつけたいような番組です。このニュアンスが分かりますか?」(※1)
つまりは、より人情味がある番組を志向していたのだろう。
そのために大事なのは司会者の人選だった。
「8時半です。おはようございます」
木島則夫のそんなにこやかな挨拶で、東京オリンピックを半年後に控えた1964年4月1日、『モーニングショー』は始まった。
司会者の打診を受けた時、木島はまだNHKのアナウンサーだった。当時は38歳。自ら取材も行うほど心血を注いだ『生活の知恵』から降板し、畑違いの番組に回されていたタイミングだった。
『モーニングショー』はあくまでも「ニュースショー」が主体だが、浅田は「一言一句間違えずにしゃべるアナウンサーではなく、人間的な感情を自分の言葉で伝えられる人」(※2)を探していた。NHKでの仕事っぷりを見て、その片鱗を木島に感じていたのだ。
しかし、NHKで染み付いた感覚はなかなか抜けない。番組開始当初はその"堅さ"がなかなか拭えず苦労した。
『モーニングショー』は基本的に録画を用いず、生放送のスタジオに話題の人を呼び、台本なしでやりとりすることを柱に据えた。台本といえるのは、コーナーの時間を示す進行表のみ。木島をはじめとするスタジオ出演者たちのアドリブを最重視していた。
木島が"堅い"ままでは面白みが半減してしまう。そう考えた浅田は賭けに出た。
木島がゲストにインタビューする企画で、わざと嘘の情報を伝えたのだ。木島は想定と違う相手の返事に戸惑いながらも、なんとかアドリブで切り抜けた(※3)。 木島はその瞬間、殻を破った。喜怒哀楽を目一杯表現し始め、相手に感情移入し涙を落とすことも少なくなかった。「泣きの木島」の誕生である。
この木島の司会が評判を生み、『モーニングショー』は大人気番組となって朝の時間帯に定着したのだ。その後、翌年に始まった『小川宏ショー』(フジテレビ)などが追随し、「ワイドショー」というジャンルを作っていった。これが『モーニングショー』がワイドショーの原点と評される所以だ。
浅田がそんなワイドショーを生み出した原動力には、それまでのテレビへの不満があった。
「どれもフィルムに頼った編集ものばかり。即時性というテレビメディアの特性を、最大限に生かしたかった」(※2)
テレビの本質は「いま」。だから生の放送と生の感情にこだわったのだ。中継技術の乏しかった当時の武器は電話。東京五輪の開会式会場から電話で中継、北海道の北炭夕張炭鉱事故で現場に飛んだ第一報も電話だった。完成した映像がなくとも、その臨場感で視聴者を惹きつけたのだ。
浅田は「映画、演劇、お笑い--。専門店しかなかったテレビにデパートを作った」(※4)と胸を張る。
完成品ではない、放送ならではの即時性と、そこからにじみ出るありのままの人間性を極限まで打ち出すことを考えた結果、「ワイドショー」というテレビならではのジャンルを産み落としたのだ。
(参考文献)
(※1)志賀信夫・著『映像の先駆者125人の肖像』(NHK出版)
(※2)読売新聞芸能部・編『テレビ番組の40年』(NHK出版)
(※3)『日経ビジネス』2006年1月30日号
(※4)「読売新聞」(2003年3月27日)
<了>