てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「塚田茂」篇

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てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「塚田茂」篇

てれびのスキマの温故知新~テレビの偉人たちに学ぶ~ 第61回



『シャボン玉ホリデー』(日本テレビ)、『FNS歌謡祭』、『オールスター家族対抗歌合戦』、『小川宏ショー』、『スターどっきりマル秘報告』、『ひらけ!ポンキッキ』、『夜のヒットスタジオ』、『クイズ!ドレミファドン!』、『新春かくし芸大会』、『爆笑ヒットパレード』(以上、フジテレビ)、『8時だョ!全員集合』、『ザ・ベストテン』(以上、TBS)......、そして『NHK紅白歌合戦』(NHK)といったテレビの草創期・黎明期から始まった数々の名番組。

それに参加したのが放送作家・演出家の塚田茂だ。いわば、「テレビ」をつくった男のひとりと言っても過言ではない。

それだけではない。1970年代には「スタッフ東京」を設立し、数多くの放送作家を養成した。彼のもとで育った放送作家には高田文夫や玉井貴代志らがいる。それまでの放送作家(特にバラエティ番組では)の地位は極めて低かったが、その状況を変え、れっきとした「職業」にするために人材を育成したのだ。

塚田茂がエンタメ業界に入ったのは舞台からだった。

太平洋戦争終戦後、新聞の求人広告を見て、東宝の面接試験を受けて合格。帝国劇場の音響効果係に配属された。その後、有楽座の照明係を経て、日劇こと日本劇場の演出部に入った。

一時、日劇を離れることになるも復帰し、舞台演出を担うようになった。この頃の彼の仕事ぶりを、先輩である宇佐美進が次のように評している。

「三橋美智也のレコードを一枚残らず聞きつくして研究し、デビュー前の三味線伴奏だけのレコードもたくさん持っていたし、民謡を根本から調べ上げていたんです。出演する人間のすべてをつかみ取って、そこからアピールする部分を見つけていく。こりゃあ、並の演出家にはできることじゃない」(※1)

そんな塚田がテレビの世界に入ったのは、『NHK紅白歌合戦』がきっかけだった。

なぜなら、1953年の第4回『紅白』は日劇を会場にしておこなわれたからだ。実は第1回から3回まで、『紅白』は大晦日ではなく年明けに放送されていた。それを4回目から大晦日に移すこととなり、スターが集まりやすい有楽町にある日劇を舞台にしたのだ。

日劇は特殊な機構を持っている。その仕組みがわからないNHKのスタッフに、舞台演出を担い熟知していた塚田が、歌手の出入り、楽屋・控室、中継アナの居場所まですべてを指揮したのだ。

これ以降、『紅白』が日劇を離れたあともブレーンのひとりとして1986年の第37回まで関わり続けた。 これをきっかけにテレビの仕事を請け負うようになり、数々の番組を手がけていった。

その中でも、飛躍的に塚田の名を世間に知らしめたのは『夜のヒットスタジオ』だろう。いや、正確にいえば、「塚田茂」ではなく「どんどんクジラ」という名で人気となった。

歌手が歌うそばで、チャップリンなどの様々な扮装で「どんどん踊り」という奇妙な踊りをして、出演者たちから小突かれながら愛されたのだ。最後には口に含んだ水をクジラのように噴き出す"芸"も披露していた。「どんどんクジラ」は、あだ名付けの名手・前田武彦の命名である。

1968年に始まり、押しも押されもせぬフジテレビを代表する番組になった『夜のヒットスタジオ』だが、この番組は急遽生まれたものだった。

もともと月曜22時の枠はイギリスのドラマ『電撃スパイ作戦』が放送されていたが、これが大不振。営業サイドから打ち切りの話が出たため、わずか2週間ほどの準備期間でできる番組ということで、生放送の音楽番組に決まったのだ。

司会に抜擢されたのが放送作家出身の前田武彦とモデル出身の芳村真理。実はこの2人のコンビはこれが初めてではなかった。ラジオ『男性対女性』(ニッポン放送)で共演経験があったのだ。

前田は彼女とのやりとりを「ああ言えばこう言う式のやりとりは自分ながら軽妙で面白い」(※2)と手応えを感じていた。そこに目をつけたのが番組で作家を務めた塚田茂だった。

塚田たちは、司会者と歌手たちがワイワイがやがやとホームパーティーをしているような番組にしたいと志向していた。そのコンセプトに2人は最適だった。

そして、もうひとつのコンセプトが「歌手の素顔が見える番組」だった。今でこそ当たり前だが、当時はそうではなかった。スターは素が見えないからこそスターだったのだ。塚田はその常識を覆すことを目論んだ。

それを象徴するコーナーが「コンピューター恋人選び」だ。出演歌手の恋愛相性をコンピューターで計算して(という体裁)、理想の相手を選出するという企画。このコーナーで"事件"が起こった。

当時、いしだあゆみと森進一の交際が噂されていた。番組は2人を同時にキャスティング。それだけでも大胆だが、あろうことかこの企画にいしだあゆみを参加させ、コンピューターはもちろん森進一を選んだのだ。

そのまま「ブルー・ライト・ヨコハマ」の演奏が始まって歌い出すも、パニックになったいしだあゆみは泣き出し、歌えなくなってしまう。すかさず芳村が「一緒に歌ってあげて」と森に囁き、隣に立たせたのだ。

今では大炎上必至の演出。けれど、当時は歌手の素顔が見られると大評判になり、「泣きの夜ヒット」などと呼ばれ視聴者を釘付けにした。

まさに「出演する人間のすべてをつかみ取って、そこからアピールする部分を見つけていく」塚田の真骨頂だった。その一方で、音楽畑出身らしく曲も大事にした。

フルコーラスを歌うことにこだわり、その豪華な舞台セットも毎回話題になった。そこには塚田の思想が反映されていたに違いない。 塚田は出演者の個性を熟知し、それを引き出すことでその魅力を伝えた。だからこそ、その人が歌う曲がより一層心に響いたのだ。

(参考文献)

(※1)志賀信夫・著『映像の先駆者 125人の肖像』(NHK出版)

(※2)前田武彦・著『マエタケのテレビ半生記』(いそっぷ社)

<了>

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