てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「谷川俊太郎」篇
てれびのスキマの温故知新~テレビの偉人たちに学ぶ~ 第62回
2024年11月13日、92歳で谷川俊太郎が亡くなった。
谷川俊太郎といえば、日本でもっとも有名な「詩人」だと言っても過言ではないだろう。そのためテレビでも訃報は大きく伝えられ、追悼番組もいくつか放送された。
12月19日(24時35分~)放送の『あの日 あのとき あの番組』(NHK総合)では、1998年11月17日に放送された伝説的番組『詩のボクシング 鳴り渡れ言葉 一億三千万の胸の奥に』を再放送。これはタイトルどおり、詩でボクシングするというイベントを中継したもの。
2人の詩人が対戦し、1ラウンドごとに1篇の詩を朗読。それをジャッジがボクシング同様10点法で判定する。これを10ラウンド繰り返すというものだ。なお、最終10ラウンドは即興詩を読むというルールだ。
この回では、初代王者・ねじめ正一に挑戦者として谷川俊太郎が挑むという形だった。谷川は、詩の朗読を積極的におこなってきており、朗読の名手としても知られていた。この番組中でもこう語っている。
「詩集っていうのはある意味で楽譜みたいなもんでしょう。それだけで詩だって思えないんですよね。誰かが黙読してくれてひとりの読者になんか感動を与えればその瞬間に詩っていうものが成立していると思う。だから、声に出すっていうのは言ってみれば演奏であって、モーツァルトも新しく曲は書いてないけどもあいかわらずモーツァルトの曲は演奏されているわけでしょ。そういうふうに自分で書いた曲を僕は演奏してもらっている」
谷川は詩を声・音として聞かせることに大きな価値を見出していた。
ところで、谷川俊太郎とテレビの関係は深い。こうした"演者"としてだけではない。
たとえば、アニメ『鉄腕アトム』の主題歌の作詞をしていることは、あまりにも有名だ。ちなみに彼の詩集『夜のミッキー・マウス』には、「百三歳になったアトム」という『鉄腕アトム』をモチーフにした現代詩もある。
「人里離れた湖の岸部でアトムは夕日を見ている
百三歳になったが顔は生れたときのままだ」
から始まる詩だ。
「どこからかあの懐かしい主題歌が響いてくる
夕日ってきれいだなあとアトムは思う」
そして、あまり知られてはいないかもしれないが、谷川俊太郎は十数本のテレビドラマも手掛けているのだ。
それは、1960年代前後のこと。テレビ放送が開始されたのは1953年。当時はまだごく限られた人しかテレビを持っていなかった。1958年、電波塔である東京タワーが竣工。
翌年に皇太子殿下ご成婚の実況中継があり一気に受信契約が増加。1960年にはカラーテレビの放送も始まった。この頃のテレビはまだまだ黎明期で実験精神に溢れていた。
だから、谷川も興味を持ち、テレビに参加したのだろう。谷川だけでなく、安部公房や寺山修司をはじめとする文学者たちも、その前後に作り手としてテレビにかかわっていた。
谷川の場合、ラジオドラマが始まりだった。
50年代、ラジオでは「詩劇」が注目されていたのだ。前述の通り、谷川は詩を音声として届けることに強い関心があった。
「僕はアメリカに留学していたときに向こうの人の朗読なんかを聴いて、声のメディアと文字のメディアとは両方とも同じくらい大事なんだと考えるようになってたんですね。だからラジオドラマに関しても、詩の声みたいなことをラジオドラマでどうにか出していけないかみたいな、詩の朗読とからめた肉声とか俳優の発声とかね、そういうものを同時に考えていた」(※1)
そうして、ドラマ脚本を書いていった流れで、1959年3月30日の22時半からの30分間、日本教育テレビ(NET、現・テレビ朝日)で放送された『部屋』を制作した。
この作品は、脚本だけではなく、浅利慶太とともに演出にもかかわっていたらしい。それ以前に手掛けていたラジオドラマでは、当時ラジオ局に詩がわかる演出家が少なく、自然と演出に口を出すことが多かった。その流れだった。
だが、テレビドラマの場合、かかわっているスタッフも多く、その専門性も高いため、本作以降は脚本に専念したようだ。
彼がテレビドラマの世界に参加したのは「現実に現代詩の世界はすごく狭苦しくって、閉鎖的だとずっと感じていたんです。ですから、他のジャンルとのコラボレーションみたいな形で、間口を拡げていきたい」(※1)という思いがあったからだ。
1960年には、石原慎太郎の企画・監修による「慎太郎ミステリー 暗闇の声」シリーズの一遍として放送された大山勝美演出の『顔又はドンファンの死』(KRT、現・TBS)、北海道のみで放送された『死ぬ』(HBC)が、翌61年には福岡ローカルの『電話』(RKB毎日放送)、『愛情の問題』(日本テレビ)、『終電まで...』(TBS)、そして和田勉が演出した『あなたは誰でしょう』(NHK Eテレ)などが制作された。
『あなたは誰でしょう』は、「ドラマを制作しているスタジオを俯瞰的に映すショットから開始される。セットも簡略化されており、それがつくられているものであることを自ら露呈するような映像になっている」(※1)という。
メタフィクション的な要素のある実験作のようだ。脚本を読む限り、前衛演劇的な雰囲気が色濃い。「詩人」も登場し、タイトル通り「あなたは誰?」というのがテーマのひとつになっている。また、テレビドラマデビュー作である『部屋』もこんなセリフから始まる。
男 君は誰?
女 誰でもないわ、まだ。
当時の谷川俊太郎にはそうした問題意識があったのだろう。
『あなたは誰でしょう』は、もともとはドラマ脚本として発想されたものではなかったという。
「実在の一人の人間をひっぱってきて、その人間のおかれているポジションに、いろいろな方向から照明を与えてゆく、一種の実況ヴァラエティのようなものとしてあたためていたものだ。
無理を承知でそれをドラマもどきにつくり上げたのは、私はテレビドラマのドラマツルギィを、大変アイマイモコとしたものと考えているからである。虚構も現実も、抒情も劇も、ニュースもドラマも、先ずいっしょくたにするところから始めたいと思っているからである」(※2)
テレビがまだアイマイモコで"何者"なのかハッキリしていなかった時代。谷川はその表現の可能性を模索していたのだ。
「テレビジョンのもつ最も本質的でかつ最も単純な意味、つまり見えないものを見ることの意味、その軽やかさと可愛らしさ、そのどこかお伽話的な感じ、それを失いたくないと思います」(※3)
そう綴っている谷川は「見えないものを見る」というのは、もともと「詩人のビジネス」だとも書いている。だからこそ、テレビに親しみを感じていたのだろう。
「もう十年もすれば、テレビなどラジオ以上に当り前のものになってしまって、どこを探してもお伽話的なところなど無くなってしまうに違いありません」という予測どおりになり、谷川は1974年に放送された田中絹代・笠智衆主演の『じゃあね』(NHK)を最後にテレビドラマ脚本から離れた。
谷川俊太郎はテレビに対する思いをこう記している。
「ぼくはそこにひとつの可愛い、子供っぽい夢だけを見ます。テレビジョン遠く離れたものを見たいという夢、どんな子供でも一度は抱く千里眼の夢。テレビジョンとは、本質的にはその単純な夢の実現以外の何ものでもない、ぼくにはどうしてもそんな風に思えるのです」(※3)
(参考文献)
(※1)谷川俊太郎・著、瀬崎圭二・編
『谷川俊太郎 私のテレビドラマの世界-「あなたは誰でしょう」』(ゆまに書房)
(※2)『テレビドラマ』1961年6月(※1に再掲)
(※3)『NHK放送文化』1957年11月(※1に再掲)
<了>