てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「石橋冠」篇

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てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「石橋冠」篇

てれびのスキマの温故知新~テレビの偉人たちに学ぶ~ 第64回



昨年10月、名優・西田敏行が亡くなった。

数え切れないほどの映画・ドラマに出演し、数多の演出家とともに仕事をしてきた。そんな中でもとりわけ信頼を寄せていた演出家がいる。

石橋冠だ。

西田は、石橋冠についてこのように語っている。

「俺が惚れ込んだ監督だけあるな、という思いでいつも見ています。やっぱり人間をどういう風に見るか。人間を俯瞰して見たり、あおって見たり、いろんな角度で見られる方です。慈愛を持って人間を見つめている、そういうところが冠さんのすばらしいところですね。人間を愛おしいと思っていないとできないことで、とても大事なことだと思います」(※1)

石橋冠は、北海道出身。北海道大学に入学するが1年で中退。早稲田大学に再入学し、卒業後、1960年に日本テレビに入社した。

制作局に配属された彼は、すぐに同局の看板ドラマとして人気だった『ダイヤル110番』のADとなった。1957年から約7年間にわたり放送された「日本初の刑事ドラマ」などと言われている作品だ。

1963年7月に放送された「三つの軌跡」と題された回で演出デビューを果たした。ちなみに1年先輩でのちに『アメリカ横断ウルトラクイズ』などを生み出す佐藤孝吉もこのドラマで"デビュー"している。

石橋は同作で6本演出し、以降『ひやみず大作戦』などいくつかのドラマを手がけていくが、彼の名を最初に広く知らしめたのは1971年1月~3月の連続ドラマ『2丁目3番地』だろう。

倉本聰が脚本を務め、人気絶頂だった石坂浩二と浅丘ルリ子が初共演した作品だ。夫婦役を演じた2人がこのドラマの共演をきっかけに本当に結婚したことも大きな話題となった。ちなみに、寺尾聰と范文雀も本作がきっかけとなり結婚している。浅丘ルリ子は、このドラマについてこう振り返っている。

「倉本聰さんの脚本、石橋冠さんの演出がとにかく素晴らしかった。市井に生きる人の心情や、家族や友人の絆が丁寧に描かれていました。石坂さんとはもうおつきあいしていたので、息はぴったりでした。相手役を好きになれば、当然、演技にもにじみ出ます。現場も、ドラマさながら楽しい雰囲気でした」(※2)

翌年には主要キャスト・スタッフが継承された『3丁目4番地』が制作された。

この頃から1980年代前半にかけて、日本テレビのドラマは"黄金時代"といっても過言ではない隆盛期を迎えた。

この当時、ドラマ部を統括していたのは津田昭。彼は「ホームドラマこそ、テレビドラマの王道である」「ドラマもまた娯楽である」が口癖で、娯楽性の高いホームドラマをつくることをすべての演出家に課した(※3)。

文芸的であったり実験的であったりする演出は排除された。ドラマはあくまでも大衆への「応援歌」であり、主役は粉骨砕身して家族や周りの人たちに尽くすものなのだ、というのが津田の信念だった。

外部プロダクション制作の枠を仕切っていた岡田晋吉も同じ考えを共有していた。そして、ホームドラマの精神を刑事ドラマや青春モノに注入していった。

その結果、『おれは男だ!』(1971~72年)、『太陽にほえろ!』(1972~86年)、『パパと呼ばないで』(1972~73年)、『傷だらけの天使』(1974~75年)、『俺たちの旅』(1975~76年)、『ひまわりの詩』(1975~76年)、『熱中時代』(1978~81年)、『西遊記』(1978~79年)、『ゆうひが丘の総理大臣』(1978~79年)、『探偵物語』(1979~80年)などなど、日本のテレビドラマ史に残る名作が数多く生み出された。

もちろん、若手演出家には不満もあった。ドラマには多くの可能性があるにもかかわらず、画一的ともいえる作風にならざるをえなかったためだ。

そんな状況で石橋は、『2丁目3番地』の成功の後、浅丘ルリ子を再び起用し、『冬物語』を制作した。石橋は、当時新進気鋭の劇作家として注目され始めていた清水邦夫に脚本を依頼した。

「第一回の脚本を家で読み始めたとき、ロマンチックなト書きが書いてあり、冒頭に詩が出てきました。 それらに目を通していくうちに、清水さんに挑発され、映像的に冒険に出ようという気になってきたのです」(※4)

石橋は清水の脚本に応える映像を撮るため、ビデオロケを敢行した。しかし、日本テレビは野球中継のため中継車が空いていない。そのため、系列局の札幌テレビ、山梨放送、読売テレビの3社から1台ずつ借りて撮影した。

「一台のカメラは四人でしか持てないような重いものでした。カメラには長いひも(カメラケーブル)が付いていますので、それを引きずり回さなければなりません。スタッフ全員が協力して操作しても、とても人手が足りません。そこで俳優さんにも軍手を配って、肉体労働を手伝ってもらいました。 平均年齢二十三歳という若い人たちがスタッフの中心だったので助かりましたが、まるで大学の運動部の合宿といった感じの撮影チームの日常生活でした」(※4)

そんな苦労の末、新しい映像世界を切り開いたこのドラマは、放送作家協会演出者賞を受賞した。津田のイズムとは必ずしも一致しない演出法だった。『冬物語』ではそれが成功したが、"失敗"したときの"制裁"は苛烈だったという。

実際、石橋は干されてしまったのだ。

石橋は約2年間、物置のような部屋にデスクを移動させられ、ドラマ演出の仕事ができなくなった。

それを救ったのが西田敏行だった。

「今度、私が主演するドラマで、あなたに演出をしてほしい。テレビ局にも掛け合ってきたから」(※5)

それが、西田敏行の代表作となる、1980年から放送された『池中玄太80キロ』シリーズだった。

不器用な玄太が血の繋がらない娘を育てるために奮闘する、まさに津田イズムが色濃いホームドラマ。不器用な男の「応援歌」で、それそのものの主題歌「もしもピアノが弾けたなら」も大ヒットした。

意気投合した2人は互いを「冠ちゃん」「トシちゃん」と呼び合う。西田敏行は石橋にとって「役者の理想型」だった。

「トシちゃんはセリフを覚えてくるが、現場へ来ると全て忘れて芝居をする。自分のハートで受け止めたことだけを発するから、セリフが生きるし、セリフの奴隷にならないんだ。役者は生き物と同じ、それが演技なんだよ」(※6)

よく西田敏行と共演した役者たちが、そのアドリブの凄まじさを語る。ついていくのが大変だと。そのアドリブは上記の石橋の言葉のように生まれていくのだろう。

そんな役者の魅力を引き出すため石橋は、複雑なカメラワークを捨て「ここからここまで映っているから、後は好きなように動いて。それをこっちから追いかけるから」(※7)と役者を自由にし、極力一発撮りで撮影した。

だから、名物となった西田敏行と長門裕之の口喧嘩のシーンは壮絶なまでのアドリブの応酬だったという。

西田は『池中玄太』を振り返ってこう語っている。

「私が飛ばすアドリブを全部『面白いね』って、拾ってくれたんです。それで、私はノビノビとセリフにないことばっかり言うようになっちゃって(笑)」(※6)

西田敏行のアドリブの"原点"こそ、石橋冠の演出だったのだ。

「あの頃はもうハチャメチャ。こっちはCMのタイミングで切りたいのに終わってくれない。だから『音を消していく』という手法を生み出した」(※8)

そうやって限界まで西田のアドリブを活かしていった。

「スタジオで演出しながら笑っちゃって怒られたのも、胸がいっぱいになって『カット』が言えず、トイレ行って涙をぬぐったのも、あの番組だけでしたね」(※7)

石橋は、日本テレビを退社してフリーになった後も、テレビドラマにこだわりつづけた。

その撮影現場で口癖のようにスタッフを叱咤して言っていた言葉がある。

「映画に負けるな!」

そんな石橋が、80歳を目前に控えた79歳のとき「1本だけ映画を撮りたい」と映画をつくった。

『人生の約束』(2016年)である。

当初は、『池中玄太』シリーズの最終章も構想していたが、主要キャストである長門裕之や坂口良子が亡くなってしまったため叶わなかった。だが、「池中玄太」ならぬ「玄さん」こと「西村玄太郎」役で西田敏行も出演している。

「映画だからテイク3くらい出した方がさまになるかな?」と思いつつも、「テイク1のあの初発のライブ感がスリリングで好きなんだよね」と、テレビドラマ的な演出法にこだわった。

そして「ドラマは『人生の応援歌』だというのが僕の原点であり、思想です。そこにこだわり抜き、全力投球できました」(※9)とドラマで培ってきた哲学を注ぎ込んだ。

その撮影現場では、スタッフにもちろんこう叱咤激励をしていた。

「テレビに負けるな!」(※5)

(参考文献)

(※1)TBSドラマ『おやじの背中』公式ホームページ

(※2)浅丘ルリ子・著『咲きつづける』(主婦の友社)

(※3)日本放送作家協会:編『テレビ作家たちの50年』(NHK出版)

(※4)志賀信夫・著『映像の先駆者 125人の肖像』(NHK出版)

(※5)「産経新聞」2016年1月26日

(※6)フジテレビ『ボクらの時代』(2023年3月26日放送)

(※7)日本テレビ50年史編集室:編『テレビ夢50年』(日本テレビ放送網株式会社)

(※8)「シネマトゥデイ」2015年12月31日

(※9)「西日本新聞」2016年1月6日

<了>

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