てれびのスキマ(戸部田 誠)の記事一覧
記事数: 56件
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てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「五味一男」篇
てれびのスキマの温故知新~テレビの偉人たちに学ぶ~ 第46回 『THE SECOND~漫才トーナメント~』(フジテレビ)で準優勝し大ブレイクを果たしたお笑いコンビ、マシンガンズ(メンバー:滝沢秀一・西堀亮)。 彼らは決勝で「やるネタがない」などとボヤいていたが、SNSなどでは「MAXめんどくせぇ!」のネタがあるじゃないかという意見が散見された。 そのネタは『エンタの神様』(日本テレビ)(以下、『エ
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てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「牛山純一」篇
テレビっ子ライター“てれびのスキマ”が、テレビ番組を作ってきた偉人たちの偉業と軌跡を伝える連載『てれびのスキマの温故知新』。今回は【牛山純一】篇をお届けします。
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てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「中島丈博」篇
テレビっ子ライター“てれびのスキマ”が、テレビ番組を作ってきた偉人たちの偉業と軌跡を伝える連載『てれびのスキマの温故知新』。今回は【中島丈博】篇をお届けします。
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てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「高橋がなり」篇
てれびのスキマの温故知新~テレビの偉人たちに学ぶ~ 第43回 いまや飛ぶ鳥を落とす勢いの活躍を見せるお笑いコンビ、ニューヨークの屋敷裕政がお笑い芸人になる前に制作会社でADをやっていたというのはよく知られた話だ。AD時代、『ネプリーグ』(フジテレビ)や『ザ!鉄腕!DASH!!』(日本テレビ)などに携わっていたという。 今でこそかなり改善されたとはいえ、やはりADといえば、精神的にも肉体的にも過酷な
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てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「棚次隆」篇
てれびのスキマの温故知新~テレビの偉人たちに学ぶ~ 第42回 ある年の『24時間テレビ』(日本テレビ)。局にはものすごい数の電話が鳴った。激励の電話ではない。抗議の電話だ。 当時、同局で『UNNAN世界征服宣言』という番組を持っていたウッチャンナンチャン。その年の『24時間テレビ』では、「ケチ」というキャラ付けをされていた内村光良が、一般募集した「ウッチャンにお金を借りたい人」数人に100万円を貸
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てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「後藤達彦」篇
てれびのスキマの温故知新~テレビの偉人たちに学ぶ~ 第41回 今年3月に開催され、日本中を沸かせた「WBC」。その試合中継でひときわ印象的だったのは、大谷翔平をはじめとする選手たちが、ベンチでも野球少年のように喜怒哀楽を表情豊かに見せてくれていたことだ。 そんな日本における野球中継の基礎を作ったといわれるテレビマンが、日本テレビの後藤達彦である。 彼の後輩で『世界まる見え!テレビ特捜部』(日本テレ
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てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「三木鶏郎」篇
てれびのスキマの温故知新~テレビの偉人たちに学ぶ~ 第40回 永六輔、キノトール、野末陳平、直木賞作家の野坂昭如や神吉拓郎、「見上げてごらん夜の星を」や「いい湯だな」を作曲したいずみたく、日本を代表するジャズドラマーのジョージ川口、歌手の中村メイコ、コメディアンの三木のり平やなべおさみ、俳優の左とん平......。 様々なジャンルで活躍した昭和のビッグネームに共通するのは「三木鶏郎」だ。彼らは、三
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てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「齋藤太朗」篇
てれびのスキマの温故知新~テレビの偉人たちに学ぶ~ 第39回 「俺が放送作家をやめたのは、お前のせいだ。とにかく才能も何もお前に搾り取られた。あのままやってたら、死んでるよ」(※1) かつて放送作家として一時代を築いていた青島幸男に面と向かってそう言われる男こそ、日本テレビの伝説的ディレクター・齋藤太朗である。 制作に関して、自分が納得いくまでとことん修正させるため、「コイシツ(しつこい)のギニョ
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てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「喰始」篇
てれびのスキマの温故知新~テレビの偉人たちに学ぶ~ 第38回 喰始といえば、言わずとしれたWAHAHA本舗の主宰・演出家だ。WAHAHA本舗は1984年に旗揚げ。そこから、久本雅美、柴田理恵、佐藤正宏、村松利史、吹越満、梅垣義明ら数多くの才能を輩出し、過激な作風で熱烈なファンを獲得している。 WAHAHA本舗を立ち上げた際、喰始は劇団員に「これからの役者は作家性が無いとダメ。だから僕は台本書きませ
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てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「山田太一」篇
てれびのスキマの温故知新~テレビの偉人たちに学ぶ~ 第37回 「学校どこですか」 テレビドラマ史上に輝く山田太一脚本の名作『ふぞろいの林檎たち』(TBS)には、各話に質問形式のサブタイトルがつけられているが、初回はこんなタイトルだった。 放送が開始された1983年頃、「大学生がドラマを見なくなった」という調査結果があったそうで、ならば大学生のドラマを作ろうと本作が企画された。だが、脚本の山田もプロ