てれびのスキマの記事一覧
記事数: 62件
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てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「後藤達彦」篇
てれびのスキマの温故知新~テレビの偉人たちに学ぶ~ 第41回 今年3月に開催され、日本中を沸かせた「WBC」。その試合中継でひときわ印象的だったのは、大谷翔平をはじめとする選手たちが、ベンチでも野球少年のように喜怒哀楽を表情豊かに見せてくれていたことだ。 そんな日本における野球中継の基礎を作ったといわれるテレビマンが、日本テレビの後藤達彦である。 彼の後輩で『世界まる見え!テレビ特捜部』(日本テレ
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てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「三木鶏郎」篇
てれびのスキマの温故知新~テレビの偉人たちに学ぶ~ 第40回 永六輔、キノトール、野末陳平、直木賞作家の野坂昭如や神吉拓郎、「見上げてごらん夜の星を」や「いい湯だな」を作曲したいずみたく、日本を代表するジャズドラマーのジョージ川口、歌手の中村メイコ、コメディアンの三木のり平やなべおさみ、俳優の左とん平......。 様々なジャンルで活躍した昭和のビッグネームに共通するのは「三木鶏郎」だ。彼らは、三
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てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「齋藤太朗」篇
てれびのスキマの温故知新~テレビの偉人たちに学ぶ~ 第39回 「俺が放送作家をやめたのは、お前のせいだ。とにかく才能も何もお前に搾り取られた。あのままやってたら、死んでるよ」(※1) かつて放送作家として一時代を築いていた青島幸男に面と向かってそう言われる男こそ、日本テレビの伝説的ディレクター・齋藤太朗である。 制作に関して、自分が納得いくまでとことん修正させるため、「コイシツ(しつこい)のギニョ
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てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「喰始」篇
てれびのスキマの温故知新~テレビの偉人たちに学ぶ~ 第38回 喰始といえば、言わずとしれたWAHAHA本舗の主宰・演出家だ。WAHAHA本舗は1984年に旗揚げ。そこから、久本雅美、柴田理恵、佐藤正宏、村松利史、吹越満、梅垣義明ら数多くの才能を輩出し、過激な作風で熱烈なファンを獲得している。 WAHAHA本舗を立ち上げた際、喰始は劇団員に「これからの役者は作家性が無いとダメ。だから僕は台本書きませ
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てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「山田太一」篇
てれびのスキマの温故知新~テレビの偉人たちに学ぶ~ 第37回 「学校どこですか」 テレビドラマ史上に輝く山田太一脚本の名作『ふぞろいの林檎たち』(TBS)には、各話に質問形式のサブタイトルがつけられているが、初回はこんなタイトルだった。 放送が開始された1983年頃、「大学生がドラマを見なくなった」という調査結果があったそうで、ならば大学生のドラマを作ろうと本作が企画された。だが、脚本の山田もプロ
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てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「加藤就一」篇
てれびのスキマの温故知新~テレビの偉人たちに学ぶ~ 第36回 今から45年前、その後「伝説」となる番組が産声をあげた。 『史上最大!アメリカ横断ウルトラクイズ』(以下、『ウルトラ』)(日本テレビ)である。 それはあまりにも衝撃的なものであった。 挑戦者たちがアメリカをはじめとする世界各国を、クイズを勝ち抜きながら旅するのだ。 ゴールはニューヨーク。出題者の福留功男が「ニューヨークへ行きたいか?」と
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てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「宮沢章夫」篇
てれびのスキマの温故知新~テレビの偉人たちに学ぶ~ 第35回 宮沢章夫が9月12日に65歳の若さで亡くなった。 宮沢といえば、80年代にシティボーイズ、いとうせいこう、竹中直人、中村ゆうじらと結成したパフォーマンスユニット「ラジカル・ガジベリビンバ・システム」で作・演出を担当し、90年代には劇団「遊園地再生事業団」を主宰。1993年には「ヒネミ」で岸田國士戯曲賞を受賞した劇作家として知られる。 小
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てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「秋房子」篇
てれびのスキマの温故知新~テレビの偉人たちに学ぶ~ 第34回 秋房子(あきふさし)という人物をご存じだろうか。 名前を聞いてもピンとこない人がいても、その顔を見れば知らない人はほとんどいないはずだ。 そう、「欽ちゃん」こと萩本欽一の、構成作家として活動する際の別名義である。 演者としてお茶の間への見栄えや親近感を演出するために女性口調を取り入れた萩本欽一は、「裏方」である構成作家としても女性が作っ
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てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「大橋巨泉」篇
てれびのスキマの温故知新~テレビの偉人たちに学ぶ~ 第33回 「野球は巨人、司会は巨泉」 王貞治&長嶋茂雄の「ON砲」全盛時代、そんな決めフレーズでテレビを席巻していたのが大橋巨泉だ。 その言葉通り、大橋巨泉といえば「司会」というイメージが強いが、元々は裏方。放送作家としてテレビに関わっていた。いや、さらに遡るとジャズ評論家でもあった。 子供の頃にジャズのレコードを聴いたことをきっかけにアメリカへ
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てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「横澤彪」篇
てれびのスキマの温故知新~テレビの偉人たちに学ぶ~ 第32回 今考えると想像がつかないが、70年代、フジテレビのキャッチフレーズは「母と子のフジテレビ」だった。朝は子供向け番組、お昼は主婦向け番組。そして、当時フジテレビの"顔"ともいえる看板番組は『スター千一夜』や『ザ・ヒットパレード』をはじめとする歌謡番組だった。 それが80年代の初頭、「楽しくなければテレビじゃない」という名キャッチフレーズを