「最終走者は、昭和20年8月6日生まれ、無限の未来と可能性をもった19歳の若者、坂井義則君です。オリンピックの理想を高らかに謳い上げて、聖火は秋空へ、秋空へと登っていきます。」1964年10月10日、東京オリンピック開会式。聖火台への点火セレモニーの様子を、多くの日本国民がテレビの前で見つめていました。 原爆投下の当日に広島県で生まれた若者が、力強く階段を駆け上る姿に、終戦後めざましい復興を遂げた日本の姿を重ね合わせた人も少なくなかったことでしょう。終戦から19年、“奇跡”といわれる高度成長を続けてきた日本は、戦後復興の象徴ともいえる一大イベント「東京オリンピック」の開催を実現。国民は、世界各国から集まったトップアスリートの活躍を、ライブ映像(生中継)で目にすることができるようになっていました。
さらに翌年には、オリンピックの影響もあって、白黒テレビ受像機の普及率が90%を突破。国民は、「復興の時期は終わり、これからは近代化による成長を目指さなければならない」という潮流を感じ取り、大きなひと区切りがついたと受け止めました。
日本企業が全力を挙げて近代化を推進
東京オリンピックから遡ること8年、「広告の鬼」こと電通社長の吉田秀雄は、1956年に初の外遊へ出ました。そして、帰国後すぐ「武器は、調査部、宣伝技術部、制作部であり、その質的強化を図らなければならない。これらは広告戦における近代兵器である」(帰国直後の社員への訓示)(出典:『電通100年史』)と発言。言葉どおり吉田は、近代的なマーケティング理論の導入に力を入れていきました。
吉田率いる電通はもとより、日本企業が全力を挙げて近代化を推進し、迎えたのがいざなぎ景気(1965年11月~1970年7月)です。この期間には、それまで「三種の神器」とされてきた「洗濯機」「冷蔵庫」「白黒テレビ」に代わって、「カー」「クーラー」「カラーテレビ」が、それらの頭文字から「3C」としてもてはやされるようになりました。
1959年度から70年度までの12年間で、2桁成長が実に8度も訪れた日本。戦後最大の不況といわれた証券不況(1964年~1965年)時の成長率は6.2%にとどまったものの、その好景気ぶりがわかるでしょう。このような“奇跡”と称された高度成長によって、日本は米国に次ぐ自由世界第2位の経済大国に上り詰めたのです。
1964年の東京オリンピック開会式の視聴率は、関東地区で61.2%を記録しました。それから遡ること7年。1957年に電通社長の吉田秀雄は、同社大阪支社ラジオ・テレビ局技術課課長の柳井朗人を呼び、視聴率調査の機器開発を命じます。「これからの広告戦は近代兵器の時代だ。テレビだって、正確なデータをもとに科学的な媒体分析を行っていかねばならない。そこで、視聴率を客観的に調べることのできる機械を、ひとつ、早急に発明してほしい」という言葉を添えて。
海外ではA・C・ニールセン社が1950年から機械式視聴率調査を開始
当時の日本では、テレビの受信契約数はまだ100万台にも達していない状況で、年間の広告費(電通推計)は新聞・ラジオに及ばず、3番手止まり。しかし、吉田は外遊で得た知見から、将来、テレビが「茶の間のセールスマン」となり、広告媒体としての価値を飛躍的に高めると予測したのです。このとき、米国ではすでに大手調査会社A・C・ニールセン社が1950年からオーディメータ(Audimeter)と呼ばれる装置で機械式視聴率調査を開始しており、欧州・豪州でも事業を展開していました。吉田が独自開発を命じた背景には、日本の技術開発の遅れと外資の日本参入への懸念があったことがうかがえます。
国産の視聴率測定機の開発は、外資と戦う力をつけるために必要不可欠
1953年、国産のテレビ受像機第1号が登場してから、その生産台数は倍々で増え続けていく一方、海外では、急成長を続ける日本への受像機の輸入制限に対する批判が高まっていました。
日本政府が貿易自由化に向けて舵を切るのは時間の問題であり、電通には「市場開放=外資との競争への覚悟」が迫られていました。
すでに海外での調査展開を始めていたA・C・ニールセン社の日本進出が容易に予想できる状況下において、国産の視聴率測定機の開発は、外資と戦う力をつけるために必要不可欠なことだったのです。
1957年に電通社長の吉田秀雄から視聴率調査機械開発を命じられた大阪支社ラジオ・テレビ局技術課課長の柳井朗人は、新装置に必要なのは、遠隔操作・監視技術と電気・光学の検知装置の組み合わせであると見当をつけました。すぐさま、大学時代の親友である無線技術者や、ストロボ研究で名高い(株)菅原研究所、東海村原子力研究所のモニター・ステーション用記録装置を開発した(株)甲南カメラ研究所(現・コーナンメディカル)などに協力を仰ぎ、開発を推進。そうして迎えた1958年夏に、第1号試作機が完成しました。しかし、この試作機は、記録結果の解読に人手と手間がかかりすぎることから、実用には至りませんでした。
電通ビデオ・メータは、まさに理想的な測定機だった
柳井は前作の欠点を克服するために、チャンネル検出と記録だけでなく、集計から報告書作成までを全自動化することを目指して研究開発を継続。第1号試作機開発から2年後の1960年秋、努力が実り、ついに「電通ビデオ・メータ」の試作機を完成させました。同年12月、柳井はこれを手土産に電通本社に赴任し、電通開発局の技術研究室長に就任。当時の同局局長は、のちに当社の初代社長となる森崎実でした。
柳井の開発した電通ビデオ・メータは、受像機から漏れる局部発信信号を受信してチャンネルの変化を検知し、幅15mmの紙テープに1分間隔でパンチするという仕組み。記録を見れば、CMの視聴状況を確認することもできました。「番組前後の1分はスポンサーにとって大切なもの」(1961年11月9日付毎日新聞の同メータ紹介記事より抜粋)とされていた当時は、CMといえば番組を提供するタイムCMが中心で、スポットCMもまだ30秒が常識の時代(15秒スポットの登場は1961年秋)。1分間隔で信号を記録できる電通ビデオ・メータは、まさに理想的な測定機だったといえます。
また、記録された紙テープの回収から、独自の集計機による集計およびコンピュータ入力用テープへの変換、電通のホストコンピュータによる分析・アウトプットまでの一連の流れが自動で完結するというのは、A・C・ニールセン社のオーディメータをはじめとする競合機器にはみられない特長でした。
1961年5月、社内で電通ビデオ・メータの性能の高さが認められ、製造委託先の東芝に50台を発注。5~6月にかけ、電通の八星苑寮にて入念な予備テストが実施されました。
測定機開発に目途がつくと、次に始まったのは視聴率調査の実施・運営形態に関する議論でした。いくつか案が出たなかで、早い段階から支持されていたのが、独立会社の設立。その最大の理由は、中立性・公正性の確保にありました。
機械式調査により人手の介入を極力排し、正確性を実現したとしても、電通という一広告企業がデータ提供するのでは、信頼を得るのは困難です。聴取率・視聴率は広告枠の価格を決めるほぼ唯一の基準で、この基本データの提供元が、広告枠を販売する広告会社では、“お手盛り”の疑いを払拭できません。また、莫大な投資を要することや、日本初の事業であるために関係各所・企業の合意が必要であることも独立会社設立が支持された理由でした。
こうして、1961年春に「電通ビデオ・メータによるテレビ調査会社設立企画案」が作成され、放送局等との交渉がスタート。同時に、本格的な“外資との戦い”の火蓋が切られました。
外資との戦いは、米国A・C・ニールセン社の会長から届いた1通の書簡から始まりました。同会長は「視聴率調査は、効率性の観点から一国一社が行うのが理想」「広告代理業が視聴率調査事業に乗り出すのは好ましくない」と提言。そして、電通が同事業から撤退すれば、投入された開発費用は同社が負担するという条件まで提示し、撤退を促してきたのです。
視聴率調査を海外企業に委ねることに対して危機感
A・C・ニールセン社は当時すでに40年近い歴史をもち、他国にも事業展開する世界的な調査会社でした。1961年日本においても、日本テレビと契約して支社を設立し、視聴率調査を東京で開始。大阪でも新たに調査を始めるなど勢力を広げていました。その業界屈指の企業を率いる会長自らが電通に対して、けん制してきたのは、独自の視聴率調査事業を開始しようとする動きを警戒してのことでした。
対して電通社長の吉田秀雄は、これを断固拒否(出典 :『電通100年史』)。日本の広告事業に高度な技術を取り入れ、育成することが、「調査の電通」の使命と捉えていたことに加え、テレビ広告の根幹ともいえる視聴率調査を海外企業に委ねることに対して危機感を抱いての判断でした。
A・C・ニールセン社の申し入れを断った電通は、視聴率調査会社の設立を急ぎました。懐柔に失敗したら、次にくるのは攻撃と予想されたからです。構想に基づき、放送局と交渉を重ねた末、1962年8月27日に帝国ホテルで会社設立発起人会を開催、次いで同年9月15日に電通西別館で会社創立総会を開催し、同年9月20日、ここに、「株式会社ビデオ・リサーチ」(1997年9月、CI導入に伴い「株式会社ビデオリサーチ」ヘと社名変更)が誕生しました。
創立株主は、電通および民放18社に東京芝浦電気(現東芝)を加えた計20社で、資本金は1億5,000万円(授権資本3億円)。社長には、当時電通の技術開発局長だった森崎実が就任し、専務の奥村驍、常務の山中二郎含め総員6名が発足時の幹部となりました。
第三者機関の調査会社設立、森崎が社長就任
実はこのとき、森崎の社長就任は急遽決まったものでした。当初、初代社長に内定していた杉山栄一郎(電通本社・調査局長)が就任の直前に病気を患い、設立準備委員の座を降りたところに、折悪しく、電通社長の吉田も病に倒れて静養中の身に。困り果てた当時の電通常務・富永令一が、療養中であった吉田を訪ね、後任人事の相談をしたところ、森崎に白羽の矢が立ったのでした。
森崎は、後にこの指名を「青天の霹靂」「状況と事業見込みからみて、極端な言い方をすれば火中の栗を拾うに似ていた」と振り返っています。前例なき事業を開始し、先行する米大手が撤退勧告までしてきた状況下において、調査や企画など無形の準備・作業は重要であるものの、当時の日本では対価が得にくいと考えたのでしょう。また、放送局が多数参画しているのは心強いものの、“船頭多くして”となる可能性もあったため、「火中の栗」という表現は、あながち大げさではありませんでした。
苦難の末、1962年12月22日視聴率調査レポート第1号発行
それでも、森崎は社長就任の挨拶で、新しいビジネスモデルを軌道に乗せる決意を力強く表明したのです。そうして1962年9月20日、「株式会社ビデオ・リサーチ」は第三者機関の調査会社として設立され、歴史的な第一歩を踏み出しました。同年の12月には、東京23区を対象とし、世帯視聴率調査を開始。視聴率第1号レポートではNTV「ダイヤモンドアワー」(44.8%)、TBS「ベン・ケーシー」(37.0%)の番組が高視聴率となっていました。
公正性確保のため、TOSBACコンピュータの出力紙をそのまま版下としていたことから、レポートには印刷不鮮明の箇所が多く、数字の判別がつきにくい問題がありました。一度、印刷会社が気をきかせて、原紙の数字を鉛筆でなぞったことがあり、森崎社長は激怒して「ただちに報告書を破棄して刷りなおせ!」と厳命、不鮮明のまま再印刷させました。データに対する人為的介入の排除は当社の生命線であり、「当時としては誠に辛いことであった」(森崎社長の述懐)としても、守り通さなければならないことでした。
テレビの社会的・文化的影響力が急速に高まると、おのずと視聴率も影響力を持つようになりました。もともと視聴率自体は、「テレビ媒体における広告料金の科学的根拠のある算定」という発想から生まれたものでしたが、1957年あたりからテレビ批判が始まり、視聴率も批判の俎上にのせられるように。週刊誌をはじめ、新聞・雑誌でも「視聴率」に関する記事が増え、その取り上げられ方は、当り障りのないものもありましたが、センセーショナルな扱いを受けるものも少なくありませんでした。また、「ビデオ・リサーチレポート」の発刊日が毎週金曜日であったことから、「魔の金曜日」とする表現も出るなど、視聴率が良悪両面の意味で話題性をもつようにもなっていました。
これに対応するため、森崎社長は「尊重される視聴率」を標榜するとともに、視聴率調査の仕組みを解説したPR資料「テレビ視聴率ガイドブック」を制作。得意先の営業マンや放送ジャーナリストなどに配布して、理論的根拠や公正性の説明に努めました。その結果、当社が提供するのは客観的データであり、それを左右するのはあくまでも視聴者であることが理解されるようになりました。
関東全域、大阪、名古屋、福岡までに調査拡大、全国的な調査体制を確立
そのような中、当社では、調査エリアの拡大を進め、全国的な調査体制の確立を急ぎました。東京に続いたのは大阪エリアで、1963年2月に、大阪市西区本町の電通靱(うつぼ)別館3階に大阪支社を開設。交通の便の悪い琵琶湖東岸地区や兵庫県の山間地帯を含む、関西全域をカバーした調査をスタートさせました。さらに、1964年5月に東京23区から関東地区全域まで調査エリアを拡大、サンプル増により、まずは、東阪での調査が確立。A・C・ニールセン社へ追いつくことに成功しました。その後も調査地区拡大に努め、1964年7月に名古屋地区(名古屋市中区)、1968年9月に福岡営業所(福岡市博多区)の開設にこぎつけました。